熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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祝 阿寒摩周国立公園誕生

昨日、阿寒国立公園が「阿寒摩周国立公園」に改称されました(報道発表資料)。

これは、先月、釧路へ行ったときに撮影した写真。
釧路駅 阿寒摩周国立公園の垂れ幕

上の垂れ幕の「祝」の文字の下には、「阿寒摩周国立公園誕生」とともに「釧路湿原国立公園指定30周年」との表記もあります。ああそうなんだ、もう30年も経ったんだと、時の流れの速さに(あるいは自分が年をとったことに)あらためて驚かされます。

釧路湿原国立公園指定のときは、旅人として、道内にいました。

釧路湿原国立公園指定記念のオレンジカード

釧路湿原国立公園の指定日は、いまから30年前、1987年の7月31日で、その日は小樽で朝を迎えています…ということは、レイルウェイ・ライター種村直樹先生の作品で、わかります。

『気まぐれ列車に御招待』89ページ
1987年7月30日の行程図

前夜は種村先生と旭川のビジネスホテルに宿泊し、7月30日は、旭川から気動車の臨時快速列車で小樽へ、というのが、上の図です。図の中に「江部乙」「銭函」がわざわざ記載されているのは、この臨時列車は、江部乙の次の停車駅が銭函だったからで、なんと札幌すら通過でありました(が、実際には、札幌駅では、ドア扱いがないだけで、ホームにしばらく止まってました)。そして、その日は、小樽(朝里川温泉)に泊まったのでした(ということも、上の本でわかります)。
 
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やっぱり紙の本

資料として購入。

本 保存車大全コンプリート

これはすごいです。全国の鉄道保存車両が写真付きで掲載されている、というだけでも十分すごいんですけど、さらにすごいのは、巻末に掲載されているカテゴリー別の保存車リストです。その数、3000超。カテゴリーというのは、蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車、ガソリン機関車、エアーロコ、バッテリーロコ、客車、気動車、電車、リニアモーターカー、バッテリーカー、モーターカー、トロリーバス、貨車、軌道自転車という車種であり、さらに、車両の状態として、車体のみ、カットボディ、前頭部、台車のみという区分がなされたうえで、形式別に、保存車両の番号と保存場所が一覧にまとめられています。

たとえば気動車の箇所をみると、ぼくがよく乗ったキハ30やキハ35は、関東地方を中心に12両も保存されていることがわかる。かたやで、キハ40系列は(まだ現役ではありますが)幾寅駅前のカットボディが唯一の保存車であることもわかる。

検索性という点では圧倒的にインターネットのほうが便利だし、メンテナンスという点でもデジタルなデータベースのほうが使いやすいとは思うものの、一覧性では、やっぱり、紙の本です。デジタルネイティブな方々が世の中の大半になれば、もしかすると脳の働きが変わってきて、デジタルな世界の中で一覧性を読み取る力が生まれるのかもしれないけれど、アナログとデジタルの間で生きているぼくにとっては、こういうのは、紙です。

これで本体価格1800円というのは、労力を考えたら絶対に合わない仕事だと思うんですけど、それが簡単に入手できる形で流通しているというのは、とてもありがたいことです。感謝!

 
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道北ローカル線乗りつぶし(2)

9時23分に浜頓別に着いても、次の天北線は、上りも下りも、2時間以上ない、という中で、ぼくは、ベニヤ原生花園に行ったのでした。北海道の動植物の名前やら生態やらに多少詳しくなるのはもう少し後、ユースでヘルパーやったりしてからのことで、当時は何も知らないから、暑い中(興浜北線で写真を撮っていたときはガスっていて肌寒かったのがこの時間帯には太陽がギラギラしていた)、えっちらおっちら、重い荷物を持って歩いていった先のベニヤ原生花園がただの草原で、なんだよこれ原生花園でもなんでもないじゃないか!と、騙されたような気分になったものでした(今ならばもう花の時期は終わっていたのだとわかるのですが)。

浜頓別駅に戻って、11時41分発の天北線音威子府行きに乗り、音威子府では3分接続の旭川行き普通列車324レに乗車。美深に13時47分に着いて、13時58分発の美幸線に乗り、仁宇布まで単純往復。この日の朝の興浜北線や、同じ旅の最初のほうで訪れた興浜南線は、夜行列車を使って朝の時間帯に訪れることで全線乗車と走行写真の撮影の両立が可能だったのですが、さすがにここは無理でした。

昭和57年の北海道鉄道路線図

美幸線に乗ったのは、このときだけ、生涯だったの一度(1往復)だけで、それほど深い思い入れがあるわけでもないのに、終着の仁宇布の一つ手前が辺渓であることが記憶に深く刻まれているのは、『時刻表2万キロ』を繰り返し読んでいるからでしょう。

《私は周遊券を持っているけれど、仁宇布駅発行の切符を入手しておきたいので窓口へ行く。
「ぺんけ」と私は言った。つぎの駅は辺渓である。
「入場券なら三〇円」と窓口氏は言う。ああそうかと思ったが、意地をはって「いや、辺渓まで」と私は無愛想に言った。すると窓口氏は、
「一枚だけでいいの?」と聞く。もちろん一枚でいいから「一枚」と答えると、こんどは、
「ハサミ入れる?」と聞く。私はうなずいて七〇円払った。
 私は、あくまで辺渓まで乗る必要があるのだという顔で押し通し、四〇円損をしたが、どうやら窓口氏にはすべてがわかっているらしい。私みたいな連中を扱いなれているような応対である。》
(『時刻表2万キロ』第7章 美幸線・興浜北線・興浜南線・名寄本線・渚滑線・歌志内線・「上砂川線」・万字線)

宮脇俊三さんが美幸線に乗ったのは昭和51年で、ぼくが乗る6年前です。その時点でもすでにこうだったのだから、ぼくが乗ったときは推して知るべし、この旅ではいわゆる盲腸線に行っても鉄道ファンばかりということはほとんどなかったのですが、美幸線だけは例外でした。本数が限られていたからでもあるのでしょうが、ここだけは、終着駅でわずかな折り返し時間に入場券を買うのが慌ただしかった記憶があります(それがゆえにそれ以外の記憶がほとんどない)。

この5年後、国鉄再建法で廃止対象となった路線が本当に廃止になり始めた頃は、どこへ行っても鉄道ファンだらけだったことを思うと(そのときはユースに泊まっても「鉄ちゃん」という言葉が普通名詞として通じた)、昭和50年代は、まだまだ、牧歌的でした。

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道北ローカル線乗りつぶし(1)

昨日の続き。

昨日のブログで、1982年の夏に南稚内から急行宗谷に乗るつもりだったのが乗れなくなって…という話を書いたら、では旭川行きの客レでしたか?という質問をフェイスブックでいただきました、が、ここは、まったく思い出せません。現在であれば、旭川行きの客車列車に乗った、ましてや手動ドアの客車に乗ったとなれば、それだけで大イベントで、忘れるはずもないのでしょうが、当時は、まだ、客車列車もたくさん走っていました。釧網本線に至っては(当時の時刻表をみると網走13時13分発の643レに乗ったのだと思うのですが)混合列車だったような気もします。

当時の記憶をたぐり寄せる数少ない手段が、昨日のブログにも写真を載せた入場券ファイル(昨年の秋に発見されたもの)と、当時の時刻表(昨年の秋に某古書店で購入したもの)でありまして、入場券ファイルからは、稚内駅の翌日に北見枝幸駅に行ったことがわかります。さらに、北見枝幸駅と同じ日付で、仁宇布駅の入場券もあります(いま思うと仁宇布に駅員がいたっていうのはすごいな)。北見枝幸駅(興浜北線)にどうやって行ったのかはよく覚えていて、そこから逆算すると、稚内のこまどりハウスYHに忘れ物を取りに戻った後、南稚内からは、何らかの方法で、札幌へ向かったはずです(もしかするとその途中で歌志内線か万字線に寄ったのかもしれない)。

札幌からは21時09分発の臨時急行《利尻51号》。思い出されるのは、キハ40が連結されていてビックリしたこと、キハ40の車内がやたらと明るくてそのおよそ夜行列車らしくない姿に違和感を覚えたこと(これは現在であれば違和感にならないと思うのですが当時の夜の列車の車内は総じて暗かったってことだと思います)、臨時出す意味あるのかなと思うぐらいにガラガラだったこと、などなど。

2時40分着の音威子府で下車して、4時16分発の天北線の始発列車に乗り換え。この天北線の始発は稚内行きと北見枝幸行きがつながっていて、そのまま乗り続けて北見枝幸には6時26分着。6時38分発の折り返しに乗って、7時04分の斜内で下車、斜内山道をキーキー音を立てながら走る次の下り列車を撮影してから、その折り返しの列車で浜頓別に戻ったのが9時23分。

『時刻表2万キロ』の河出文庫版には巻頭にカラーグラビアのページがあって、その最初(表紙を開いたその次のページ)が、斜内〜目梨泊間を走る興浜北線の列車です。

本の表紙

上の写真の後ろにある『北海道 鉄道跡を紀行する』(1991年刊)には、廃止後の斜内山道のルポが載っていて、斜内駅(跡)の待合室(跡)の写真も載っていますが、この本を開いてみて「そうそう、こんな感じだった」というよりは、この本を開いてみて、ああ自分の記憶は間違ってなかった、というぐらいに、この付近の風景は、いまだ映像として脳内に残っています。

『時刻表2万キロ』での斜内山道の記述は、地理的な説明はさすが宮脇さんと思わせる巧さなのですが、乗車体験については《ディーゼルカーは海に落ちないように速度を落として恐る恐る通過する》という一文で終わっています。

これは、ぼくの感想とは大いに異なるところでありまして、って、そりゃ、大巨匠(とはいうもののこの本の執筆時はまだ新人作家ですらないわけですが)と北海道初体験の高校生の感想が違うのは当たり前なんですけど、ぼくは、ここを通る列車に乗っているとき、おいおいこのディーゼルカーはこのまま止まっちゃうんじゃないか?大丈夫か?海に落ちないのか?と、かなり、ドキドキ、ハラハラしました。いま思えば、落ちるわけないんだけど、車輪とレールのこすれるキーキーという音も激しくて、窓の外は霧に覆われていてよく見えないし(ああいうのを「ガスってる」と表現する言葉は当時の自分の中にはなかった)、ものすごく、不安になったものでした(知る人ぞ知る話で恐縮ですが、レイルウェイ・ライター氏が立野のスイッチバックで「崖崩れだ!」と言ったというのも同じような感じだったのかもしれない)。

そんなふうに感じたのは、自分自身の経験が少なかったこともあるでしょうし、また、現在に比べたら情報が圧倒的に少なかったから、でもあるのでしょう…と言いつつ、その情報の少ないときに、わざわざ斜内で下車して歩いてあの急カーブに写真を撮りに行った高校生というのも、また、不思議ではあるのですが、どうしてわざわざそんなところに行ったのかは、もはや自分でもさっぱりわかりません。

美幸線に行き着かないうちに、やたら長くなってしまったので、続きはまたあらためて。

 
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1982年の南稚内

仕事関係の人たちと飲んでいる席で、夏休みの話になって、ぼくは毎年礼文島に行くんです、って話をしたら、目の前の人から、有名ユース・ホステルの名前が出てきまして…

「よくご存じですね」
「こまどりハウスっていうのがあって、うちのサークルが、代々、ヘルパーやってて」
「えっ!」

ぼくが初めて北海道を旅した1982年の夏、ぼくはW高校の1年生でした。そのとき、稚内で泊まった「こまどりハウスYH(ユース・ホステル)」ではW大学の旅のサークルのみなさんがヘルパーをやっていて、W高校のぼくは、W大学のお兄さんお姉さんがたに、たいそう、かわいがられたのでした。

「オレ、82年と83年に、やってたんだよね」

稚内駅の入場券 昭和57年7月27日

おお!なんということだ!いま札幌で一緒に飲んでいる、仕事上でしか接点がないと思っていたオジサンたちは、35年前、大学生と高校生という立場で、ヘルパーとホステラーという立場で、稚内のユース・ホステルで、出会っていた!

稚内のYHの話をするときに注意しないといけないのは、稚内YHというのが2つあることで、1982年当時は、稚内駅の近くあったのが稚内YHでした。それが閉館になった後、こまどりハウスYH(南稚内駅近く)が稚内YHに改称し、稚内YHとして昨年まで営業していました。現在も稚内駅の近くにあるモシリパYHは、これらとはまったく別の施設です。

「稚内ユースっていうのがあってね」
「カレー!」

この、カレー、のところ、見事に、ハモりました。まわりにはほかにも何人かいたんだけど、この瞬間だけは、二人の世界(笑)。そうです、当時、稚内YHといえば、カレーだったのです。当時はインターネットなんてなかったけれど、YHハンドブックに「カレーが自慢です」みたいな記述があって、情報の少ない時代にあって、稚内ユース=カレー、は、現在でいえば、帯広=豚丼、ぐらいには、北海道を旅する人たちの間で、知られていました。

そのときは思い出せなかったんだけど、しばらく経ったら、いろんなことを思い出してきた。

こまどりハウスYHに泊まった翌朝、ぼくは、南稚内駅の改札口の前の列に並んで、7時15分発の札幌行き急行《宗谷》の改札が始まるのを待っていました(と書きながら思うのはそれでも朝食は済ませていたということはかなり朝食が早かったということで、あれは朝の船で利尻・礼文に渡る人が多かったからなんだろうな<当時の利礼航路の初便は7時台でした)。その行列の中にいたときに、ユースのベッドの枕元に帽子を置き忘れてきたことを思い出し、坂道を登って、ユースに戻ったのです。

宗谷本線の時刻表

帽子は無事に確保されたものの、すぐに駅に戻ったところで次の列車は2時間以上も後。高台にある眺めのいいユースでは、ライダーが次々と出発していき、宿泊者が少なくなった朝のユースのまったりした空気の中で、ヘルパーのおにいさんおねえさんたちから「おーくまくん、島には行かないのかい?」「島はいいよ」と利尻・礼文を勧められ、さすがに北海道ワイドでは行くことのできない島には渡らなかったものの(離島に行くなんて考えてもみなかった)、「周遊券まだあるんだろ?また来なよ」という誘惑には、その何日か後に、このYHに戻ることで、見事に応えてしまったのでした(高校1年生にしてYH用語で言うところの「出戻り」初体験)。

そして、それから5年後には、島にも渡ることになるわけです。

急行宗谷の編成表

自分らしいなあと思うのは、カレーで有名だった稚内YHではなく、地味な存在だったこまどりハウスYHを選んでいることで、この辺は、桃岩荘ではなく船泊を選んだのと似ています。これといった理由もなく、超有名なところよりも地味なところのほうがいいな、という程度で選んだ船泊YHに、まさか、その後、30年も通うことになるなんて、当時は想像できるはずがない。

不思議だなあ。すっかり忘れてたことが、どんどん、甦ってくる。あのときの南稚内駅の、改札口からまっすぐに列ができていた光景(あの駅の形はいまも同じなんだよねえ)。こまどりハウスの前の、うっすらと霧のかかった中で、バイクを見送ったこと。自分が寝ていたベッドに戻ったとき、そこにあった帽子の様子。それらが、頭の中に、映像として出てくる。

こういう記憶が、映像として、脳内のどこかに、保存されてるんですねえ。

 

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『島医者 礼文島船泊診療所』

たまたま見つけた写真集のご紹介。

2016年9月刊。

写真集の表紙

全ページ、モノクロの写真集。タイトルは「島医者」だけど、べつに医師や診療所ばかりが写っているわけではなく、礼文島の厳しくも優しい風景の写真もたくさんあります。でも、メインテーマは、島医者、船泊診療所と、診療所の升田先生です。

升田先生は、礼文島から小樽潮陵高校〜秋田大学医学部を経て、1986年に礼文に戻り、以来、30年以上にわたって、礼文島の医療を支えてきた方です。升田先生が所長を務める船泊診療所は、島で唯一の入院施設を有する診療所。検査設備も充実していますが、手に負えないような緊急事態の場合は、ドクターヘリが出動します。この写真集の中には、ドクターヘリで患者が搬送される場面もあります。

設備は充実しているけれど、常勤医師は、升田先生だけです。病気も怪我も、すべて、升田先生が診るのです。離島だから、そうするしかないのです。でも、升田先生がいるから、礼文の人々は、稚内まで船で2時間かかる島で、安心して暮らすことができるのです。

じつは、ぼくも、升田先生に、お世話になったことがあります。ストレッチャーの上に横になったまま、診療所に運ばれて、升田先生から応急処置を施されました。

礼文島の出入口である香深のフェリーターミナルが増築されたとき、同時に設置されたエレベーターには、ストレッチャーがそのまま入ります。あんな立派なターミナルが必要なのか?と思うかもしれませんが、これもまた、地域住民が安心して暮らすためには、必要な設備なのです。

こうした公共投資のことになると、とかく人口減少とか費用対効果とかって話になりがちなのですが、少なくとも、そこで暮らしている人がいる、それをないがしろにしてお金の話ばかりするわけにはいかない、という視点は、忘れてはならないことだと思っています。
 

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台風なんて怖くない

いまいちばん気になるニュースは、日本の南海上に居座る台風5号の進路です。

北海道の日本海側にいる限りは台風なんて気にすることはないはずなのですが、3年前の今ごろには、こんなことがありました。

台風の進路図
気象庁|台風経路図2014年から「第11号(上陸)」を切り取り)

上の図の色の付いた線は2014年8月の台風11号(12日以降は温帯低気圧)の進路、数字は日付です。「10」と書いてあるところは10日の午前9時の台風の位置で、これが四国と本州の間あたり。その24時間後の「11」は奥尻島沖です。

日本海に出てから大陸の縁を沿って進んだことも異例ですが、このとき(個人的に)もっとも困ったのは、北海道の日本海側に到達してから台風の進む速度が落ちてしまったことで、「10」から「11」の間には四国から奥尻島沖まで進んでいるのに、その後の「11」から「12」では礼文島の北までしか進んでいません。

その結果、この年の利礼航路(稚内〜利尻島・礼文島)は、8月11日から12日にかけて、まる2日間、全便欠航となってしまいました。お盆休みに入りかけた時期だけに、大勢の観光客が稚内から先に進めなくなったり、島から出られなくなったりして、大変な目に遭いました。多客期だから1日でも影響大なのに、2日ですからね…

ぼくも、このとき、稚内で足止めを食らいました。海が荒れているだけで天気は悪くなかったので、同様に稚内で島に渡れなくなっていた友人とレンタカーを借りて、稚内周辺をまわりました(ほとんど時間つぶしの世界)。以前にも書きましたが、夏休みの最混雑期だからレンタカーを当日に借りるなんてできないと思いきや、利尻・礼文から観光客が出てこられないから、その人たちが予約していたレンタカーがたくさん余っていて、当日の飛び込みはレンタカー屋さんに歓迎されました。

一度降りてみたいと思っていた抜海駅に、こんな形で立ち寄ることになるとは。

駅舎
駅のホーム

抜海駅には先客がいて、この人どこかで見たことあるな…どこで会ったんだろう…と考えても思い出せず、そのまま声をかけることもなく立ち去ったのですが、この翌年に、礼文島の港で、某民宿の常連さんの輪の中に、その人の姿を発見して、納得しました。毎年、礼文島内のどこかで(おもに港で)、顔を合わせているのだから(話をしたことはたぶんないと思うんだけど)、見覚えがあるわけです。

礼文島が50年に一度の大雨に見舞われたのは、この台風(温帯低気圧)の約2週間後。あれから3年経って、トレッキングコースもすっかり修復されました。夏でも涼しい礼文島は、みなさまのご来島をお待ちしております。

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変わりゆく苗穂駅界隈

なにげなく車窓を眺めていて、あ!建物がなくなっちゃった!と驚いたのは、少し前のこと。

線路脇の広大な空き地

上の写真は苗穂駅の西側にある跨線橋から撮影したものですが、線路の北側にあったJRの研修センターが取り壊され、線路とアリオの間が空き地になっちゃってます。

こちらは同じ跨線橋の上から、苗穂駅方向を眺めたもの。

歩道橋から見た苗穂駅



桑園と琴似は(とっくに)高架化され、手稲駅は(かなり前ですが)橋上駅舎化、そして白石駅も橋上駅舎化されて、苗穂駅は幹線上に残された最後の昔ながらの駅舎であったのですが、この姿が見られるのも、もう、あと、残りわずかです。

苗穂駅の駅舎
苗穂駅移転橋上化の工事標識
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さあ、8月!

8月のカレンダーはキハ183系500番代 特急「おおぞら」。

根室本線 西新得(信)〜広内(信)間
昭和62年撮影
特急「おおぞら」昭和62年撮影

卓上カレンダーは、礼文岳山頂から見た礼文島の北部と海馬島。

礼文岳からの眺め

今月も、ゆるゆると、参りましょう。
 
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