熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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ネガティブがデラックスに詰まってる

30年以上前に火事に遭った際の我が家の消防署の検証結果は「全焼」だったのに、なぜか手元にある、それより前のハクバネガティブアルバムデラックス(当時は「ネガティブ=ネガフィルム」であってネガティブとかポジティブなんていうカタカナ言葉は日本語になってなかったと思う)。

ネガティブファイル

これがどこから出てきてどのように保管されていたのかは、もはや、知るすべはないのですが、とにかく、これがあるおかげで、6月3日の発表!「あなたと鉄道写真」以来、へんなスイッチが入っちゃって、文字通り寝食を忘れてあれこれやっちゃったもんで、この週末は眠いわ体のあちこちは痛いわで、そりゃもう大変です(ただでさえ3ヶ月ぶりに通常の仕事に戻ったばかりで疲れ気味だというのに!)。

スイッチオンなので通常であれば出てこないエネルギーが噴出されて、それ以降のネガが入っている箱も開けてしまいました。ステイホームおうち時間が終わってから手をつけるとは、何をやっているんでしょう、この人は。

欧風メルヘン菓子 D51物語
D51物語と書かれた箱

Facebookのカバー写真にしたインディアン・パシフィックの写真(ネガ)も、この箱の中にあったものです。

砂漠の中の駅と長い編成の列車

古いネガやポジを見ていて驚いたのは、若い頃からずいぶんとあちこちに出かけていたことで、長い休みは北海道に行くから週末を使って小旅行を、という行動パターンになったのは、社会人になってずいぶん経ってからのことだと思っていたら、この人、学生時代から、けっこう、あちこち、日帰りだったり1泊だったりで、出かけていたらしい。

思い起こせば、大学入学後まもなくしてから、竹ノ塚のレイルウェイ・ライター事務所でアルバイトをするようになって、事務所で毎年開催されていた新年会に呼ばれるようになって、自分より年上の社会人の方々の「去年はこうでした」「今年はこうしたいです」といったお話を聞きながら、みなさんが気軽に遠くへ旅行していることを知って、あ、そうなんだ、何か特別なことがなくても旅行していいんだと思ったのが、そのきっかけだったように思います。

そういう意味では、ぼくの場合は、どうしても**をしたいから、記録に残しておきたいから、という内在的な動機はなくて、何かへのこだわり、あるいはどうしてもやりたいことがあってそれを遮二無二実現させようとする人のことは羨ましかったりするのですが、それはまた別の話。

昭和63年7月28日のレイルウェイ・ライター種村直樹先生。

列車の窓ごしの乗客たち

《このまま<日本海3号>に乗っていても津軽線の接続は同じになるので八郎潟で下車し、23分後の<津軽>に乗り継ぐ。寝台のヒルネより遥かに気持ちが良い。一夜前に仮の宿とした列車を今度は昼行として利用するのも面白い。大館駅を発車するとき、上りホームに小熊が見え、向こうも気づいてカメラのシャッターも押してくれた。》(種村直樹『気まぐれ列車に御招待』1989年,実業之日本社)

「小熊」は、ぼくのことです。種村作品に登場する大熊姓には、もう一人、ぼくよりずっと先輩の大熊さんがいるもので、ぼくが作品の中に登場したときは「小熊」になってます。

日付の入った路線地図

種村先生が乗っていた急行津軽は、たぶん、これ。

駅に進入してくる列車

古いネガやポジをスキャンしてFacebookに載せて説明文を書くと「その時代の**線にはその車両は使われていないはずだ!」といったご指摘をいただくことがあるもので、こういうものを載せることに、少し、臆病になってます(笑)。この列車の写真は、上の窓ごしの種村先生の写真の直前のコマだから、間違いないだろうとは思うのですが。

あれから30年以上が過ぎてみると、ネット上のバーチャルなコミュニティなど全く存在しなかった時代に、学校や会社といった同質性の高いコミュニティとは別のところで異質な方々との接点を持てたことは、とても幸運で幸福なことだったと思います。そうした世界を(ご自身が意図したかどうかは別として)作ってきたこと、そして直接の後継者は作らなかったけれどさまざまな社会で活躍する人たちを育ててきたことは(も)、種村氏の遺した大きな功績(の一つ)です。

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