熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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君は四号線を知っているか

平成元年(1989年)5月1日に廃止になった名寄本線(名寄〜紋別〜遠軽)には、途中の中湧別から海に近い湧別までの支線がありました。


(昭文社レールウェイマップル鉄道地図帳北海道より)

中湧別から湧別まではわずかに4.9kmでしたが、その間には「四号線」という駅がありました。「よんごうせん」ではなく「しごうせん」。いずれにしても、バス停みたいな名前ですが、鉄道の駅です。



上の写真の駅名標の下に時刻表があって、左の「中湧別行」が7時07分と16時36分、右の「湧別行」が6時55分と16時25分と、それぞれ2本ずつです。四号線を通過する列車はなく、この2本が、中湧別〜湧別間を走る列車のすべてでした。



それしか列車がないのにどうしてこんな写真があるのかというと、ぼくは、このとき、中湧別から湧別までの片道4.9kmを、歩いていったのでした。大きなリュックを背負って三脚とカメラバッグまで担いで、いくらオホーツク海側とはいえ夏は暑いわけで、そんな中を歩こうと考えることは、無謀であり、元気がありました。若かったあの頃は、何も怖くなかったんだろうな〜

歩いていったから、並行道路のバス停には四号線以外にも「二号線」「三号線」「五号線」があったこともわかりましたが、そのぐらい、この地域には地名がなかったということなのでしょう。

1日2本しか列車が来ない湧別駅には、立派な駅舎がありました。



ホームも立派。



中湧別を16時20分に出た列車が湧別駅に到着(キハ40  158)。



湧別駅は無人だったから、この写真は、折り返しの列車が出発するまでの間に、車掌さんに撮ってもらったのでしょう。



到着から出発までの時間は4分しかなかったけれど、鉄道ファンや旅行者はぼくだけだったから(これだけ秘境感たっぷりの路線では今ならそんなことはあり得ないんだろうけど)、そんな余裕もあったのでしょう。

中湧別へ向かう列車の中では、この頃のJR北海道の列車内では恒例だった車掌さんのオレンジカード販売がありました。ときに「押し売りされる」とすら言われた車内でのオレンジカード販売でしたが、ノルマがあって大変なんです、といった話を、このときのガラガラの車内で聞いて、世の中のことなんか何もわかってないあまちゃんの若者なりに、なんかへんだなあと思ったことを覚えています。あれはぼくが若者だったからああいう話をしてもらえたのであって、いまのぼくがカメラ持って乗ってたとしても、そんな話にはならんだろうなあ(若者よ旅に出よう!)。

中湧別に着いた後は、キハ22で遠軽へ移動して(このときの列車はなぜか混んでいて車掌さんが車掌室に座らせてくれた<こんなの完全に規則違反なんだろうけどもう時効ってことで)、遠軽からは特急おおとりで網走へ。おおとりですよ、おおとり!関空から天王寺に向かうときに通る駅でもなければ、おゝとりゲンでもない、特急「おおとり」。函館発網走行という、今では考えられないロングラン特急で、網走に着いたのが20時57分。今なら駅前の東横インに泊まるんでしょうけど、昭和62年のぼくは、33分後に網走を出発する夜行列車=急行大雪=の自由席(5号車スハフ14 560)で札幌へと向かったのでありました。

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