熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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「その意見、ちょっと待ってほしい」

5月18日の北海道新聞朝刊「朝の食卓」は「地方のことは地方で決める」。筆者は、網走在住の農業写真家・石黒明氏。

本文から一部引用:
《連日のように報道では、地方は鉄道ありきの議論に終始するのではなく、バスを含めた交通体系に改めるべきだとの論調が飛び交っている。今後ますます人口減少が進む地方には鉄道は要らないという内容だ。
その意見、ちょっと待ってほしい。
鉄道とバスの役割を混同して議論してはならない。鉄道の役割には二つの視点がある。生活路線としての視点と、交通ネットワークとしての視点だ。
鉄道を生活路線として評価すると、利便性ではバスが勝る。バスは買い物や通院など目的に応じて柔軟に路線を設定可能だ。しかし、鉄道を全国とつながる交通ネットワークとして評価すると、到底、バスではかなわない価値がある。》



ぼくは、当然鉄道守れ派だろうと思われてるかもしれませんけど、ときどき、本当は鉄道はなくてもいいんじゃないか?と、自分の思いが揺らぐことがあります。なぜならば、ぼくは(ほぼ)ペーパードライバーで、マイカーを保有していないという、道民としてはきわめて少数派の一人であるからです。世の中の多数を占める人々、日常的にマイカーで移動することが当たり前になっている人とは、拠って立つ場所が異なるから、ぼくが考えていることは、世の中からズレているのかもしれない。

ズレててもいいんですけどね。
多数の意見が正しいとは限らないのですから。

という話はさておき、北海道内で暮らしていて、鉄道の好きな人たちと話をしているときはまだしも、そうでない、ごく普通の、鉄道が好きでも嫌いでもない人たちと話をしていると(日常生活全体を考えれば後者の機会のほうが圧倒的に多い)、誰も期待していない鉄道を、お金をかけて維持しなくてもいいんじゃない?と、こういうぼくですら、思うことがあるのです。

だから、土曜日の、石黒さんのコラム(読者投稿欄ではなく北海道新聞社さんから依頼されて書いている文章です)に、ドキッとしたのです。

その意見、ちょっと待ってほしい。

そもそも、鉄道は要らない、の出発点は、鉄道は必要か否か、では、ありません。必要か必要でないかと問われれば、あったほうがいいに決まってます。選択肢は、多いほうがいいのです。ただ、鉄道を維持していくには、お金がかかる。そのお金がない、そんなお金は(ほかにも使わなきゃいけないことがあるのだから)もったいない、というのが、この議論の出発点です。

でも、ね。

お金がかかるといっても、他のさまざまな施策に比べて、規模は、どうなのか。

ここで「JR北海道は民間企業なのだから云々」と言い出すとややこしくなるのですが、資本構成をみれば純粋民間企業とはいえないし、社会資本であると考えれば、必要に応じて公的資金を投じることはおかしくないはずです。

じゃあ、社会資本なのですか?という話になる。

そこで出てくるのが、石黒さんが指摘している「鉄道の役割」です。

地域住民の生活が云々という視点は、30年以上前の国鉄改革のときに(それ以前に)議論が尽くされています。なかには、いったんは建設が凍結されたのに、政治に翻弄されて建設費が予算化されて中断していた工事が再開されて、開業はしたものの、やっぱり必要なかったということになって、結局は廃止になってしまった、などという、わけのわからない路線すらあります(いまさらその責任を問うのは不毛ですが、そういうことがあった、ということは、目の前に赤字ローカル線が横たわっている現代のわれわれも、広く知っておくべきことだと思います)。

一方で、交通ネットワークという視点では、どうなのか?

ここで、議論はすれ違いを始めます。高速道路が整備されて、マイカー普及率が上がって、運転免許保有率も上がったのだから、移動の手段は自家用車でいいじゃないか、観光客だってレンタカーが使えるじゃないか、という話になっちゃうと、議論は成立しません。そこには「公共交通」という視点が、完全に、欠けているからです。

そこなんですよね。

北海道の人は(全国的に地方の人の多くはそうかもしれませんが)、公共交通という概念が、おそらく、頭にない。なぜなら、公共交通を利用する機会がないからで、現在の若者世代になると、生まれたときから自分の家にマイカーがあったから、せいぜい通学か、修学旅行ぐらいしか、公共交通との接点がない。旅行=ドライブであって、それ以外の経験がないまま、大人になっていく。かたやで、大人の側は、いまこれで不便を感じてないんだから、それでいいじゃない、なんで鉄道を維持するためにお金を負担しなきゃいけないの?って発想になっちゃう。

ここで決定的に欠けているのは、結局のところ、公共、未来、という概念であるように思えます。たしかに、自分の生活だけを考えれば、交通ネットワークなんて、使わない人(北海道で暮らす多くの人)にとっては、どうでもいいことかもしれません。でも、先々のことを考えたら、それは、地域間を行き交う人の数が減っていくことになり、やがては地域の衰退につながっていく。

そんなのずっと先のことでしょうと思いたいけれど、ぼくらは、たかがこの30年ぐらいの間に、賑わいが消えてしまった町を、たくさん見てきています。その原因は、鉄道の廃止にあるとは限らない、けれど、鉄道が消えて交通ネットワークから切り離されるということは、人の往来の可能性を狭めてしまうことであり、人の行き来がなくなれば、あとは静かに沈んでいくだけです。

生活路線としての鉄道の役割を放棄して、交通ネットワークとしての役割に資源を集中投下するのであれば、すべての路線を石勝線のような形にしなければならないのかもしれない。小さな駅を廃止することによって減少する赤字額なんていくらでもないでしょう、という反論は成り立ちそうだけれども、余裕のないギリギリの状態になれば、たとえ小さな金額であっても、優先順位の低い支出は絞らざるを得ない。

閑話休題。交通ネットワークという役割を持ってくると、その存廃の決定権を沿線市町村に委ねるのは、おかしな話になってきます。だからといって、そうだそうだ、そこは道が考えるべきだ!国がなんとかしろ!ということでもない。すぐにそっちに行っちゃうのは、北海道民の悪い癖。身内に向かって悪口は言いたくないけれど、ぼくも、北海道に住むようになって17年、その間に道内各地でお仕事をさせていただいて、それとともに遠くは九州まで北海道外の自治体や地場企業の方々ともお仕事させていただきましたが、やっぱり、そうなんです。最後は「お上」がなんとかしてくれると思ってる傾向は、やっぱり、強いんです。

もちろん、道や国が何もしなくていいわけでもない、けれど、その前に、まずは、道民ひとりひとりが、公共交通、ひいては公共ということについて、考えていかねばなりません。

石黒さんの「朝の食卓」は、こう結ばれています。

《地域内交通と広域交通の役割を担うローカル線の将来は、地方に暮らす私たちの手中にある。改めて公共交通の存在価値を見つめ直し、新たな時代に挑みたい。》

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