熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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122年後の北海道鉄道敷設部

田村喜子著『北海道浪漫鉄道』(新潮社)は昭和61年10月刊。



表紙に付された帯にいわく―《開拓を促進するためには、まず鉄路をと念じる北海道の人々の願望を一身に、未踏の原生林や激変する天候と闘い、北海道鉄道敷設に賭けた土木技術者たちの熱い夢と理念を描く。》

舞台は明治時代の北海道、主人公は《六年間勤務した帝国大学工科大学(いまの東京大学工学部)の教授の椅子を捨て、臨時北海道鉄道敷設部事務調査嘱託に就いたばかり》(本書p.3)の田辺朔郎。

《このころ北海道には小樽から札幌を経て空知太(いまの滝川)までと、岩見沢から室蘭にいたる三百二十キロメートルの鉄道が敷設されていた。(略)北海道の大動脈となるべき鉄道の敷設は、開拓使時代以来、明治十九年の道庁開設後も、歴代長官の念願の課題だった。なかでも明治二十五年から第四代長官となった北垣国道は、北海道拓殖事業の最大急要事項として、強力に政府に働きかけていた。(略)「これがそのとき作った鉄道幹線図だ」北垣は朔郎の前に北海道地図をひろげると、書き入れた線路を指先でなぞった。「空知太から上川に出て、富良野原野を経て十勝の中央を貫いて道東に達する線、上川から宗谷、上川から北見海岸、それから函館から小樽。北海道を東西南北に通す一千マイルの大動脈構想は、そのときから立てられておるのだ」》(p,6〜p.7)

《明治二十九年五月十四日、法律第九十三号北海道鉄道敷設法は公布され》《同じ日、朔郎は臨時北海道鉄道敷設部事務調査嘱託に任命され》、その2ヶ月後、《札幌に着任した朔郎は、原長官から臨時北海道鉄道敷設部技師の辞令を受けた》(p.65)。そして《「技師」を拝命した朔郎は、臨時北海道鉄道敷設部の実質上の総号令(トップ)となった》(p.66)。

北海道に鉄道を敷設するために設けられた、田辺朔郎をトップとする臨時北海道鉄道敷設部は、北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)の中にありました。

《臨時北海道鉄道敷設部は赤煉瓦の道庁舎内におかれた。正面玄関から階段をあがると、二階正面が長官室で、鉄道部は廊下を行きあたった北側にあった。窓からは北海道炭鉱鉄道の札幌停車場が眺められ、汽笛が流れ込んだ。》(p.67)

赤煉瓦の道庁舎は、現在、赤れんが庁舎(北海道庁旧本庁舎)として一般公開されています。臨時北海道鉄道敷設部があった部屋=正面玄関から階段を上って2階の廊下を行きあたった北側の部屋=は、会議室として利用されています。

そこには、こんな絵が飾られています。




《画題「石炭をはこぶ」菊地精二(洋画) 明治13年(1880)、北海道にはじめての鉄道が、手宮(小樽)、札幌間に開通し、次いで15年には幌内までの全線が完成した。幌内炭山は、開拓使が最も期待した有望な炭坑であった。これを手はじめに、石狩炭田の石炭が盛んに採掘され、鉄道によって港へ運び出されていったのである。ここを走る機関車には、伝説にちなんで義経号、弁慶号、静号などと名付けられていた。》

今週末、その部屋で、ぼくらは、展示博覧会「北海道の鉄道 過去、現在、未来」を開催します。122年前に田辺朔郎がその部屋で描いた熱い夢と理念を未来に繋げていくべく、多くの皆様に楽しんでいただけるよう、がんばります。

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