熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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流氷の季節

去年も書きましたが、まだ昭和だった頃、ぼくを流氷の海へと誘ったのは、宮脇俊三さんの著作でした。

《日本列島の自然の景観は小味だ。春夏秋冬、四季折り折りの微妙な変化があり、おなじ所でも季節を変えて訪れてみると、またちがった風趣があって、それなりに味わいがあるのだが、雄大な風景となると、地勢の規模が小さいので、これといって世界に誇示するものがない。
そのなかにあっての例外は冬のオホーツク海岸を埋める流氷であろう。ひしめき合い、せめぎ合いながら水平線の向うまで埋めつくした氷塊原の容赦なさは荘厳でさえあり、日本にいることを忘れさせるものがある。》 (「乗りつぎ乗りかえ流氷の海」〜『旅の終りは個室寝台車』1984年)

宮脇さんは、1983年のこの旅で、札幌から遠軽まで特急列車に乗った後、遠軽から名寄本線に乗り換えて、紋別を経由して興部へと向かっています。当時、北海道ワイド周遊券を手にしたホステラーが「流氷」と聞いて思い浮かべるのは「紋別流氷の宿」。オホーツク海に沿った区間が長いのは、湧網線、あるいは名寄本線でしたから、流氷を眺めるためにそちらへ向かうのは、自然な動きだったのだろうと思います。

でも、オホーツク海沿いの区間がそれほど長くない釧網本線にも、北浜駅という、オホーツク海にいちばん近くて、駅舎が喫茶店になっているという、とても魅力的な駅がありました。だから(だと思うんだけど)、ぼくが初めて流氷を見ようと出かけたときに泊まったのは、紋別流氷の宿ではなく、北浜駅にほど近い、原生花園ユースホステルでした。

少なからぬ旅人と同様、ぼくも、初めての流氷を求めての旅では流氷に出会うことができず、翌年、もう少し早い時期に再訪することとなり、今度は(前と同じところに泊まるのもつまらないからと)浜小清水駅が最寄りの中山記念小清水ユースホステルに泊まりました。それがきっかけで、その後、ぼくは、小清水YHで、ヘルパーとしてひと冬を過ごすことになるわけです。

ヘルパー生活をわりと気楽に考えていたぼくは、流氷の海を撮る気まんまんで、大量のフィルムを持ち込んだのですが、朝は誰よりも早く起きてストーブに火を入れ、夜は宿泊者の人数やら属性やらを集計してユースホステル協会の本部に報告してお金の集計までやってから寝るという生活はなかなかに過酷で、ホステラー(宿泊客)がいる限りは休みもないから、そのうちに昼間はひたすら昼寝をせざるを得なくなっていった(そうしないと体が持たない)…のは、フィルムを消費できなかった原因のごく一部でしかなく、思っていたほど写真を撮らなかった(撮れなかった)のは、この年は、流氷が来なかったからなのでした。

その年のことは、『ドキュメント 流氷くる!』(菊池慶一著、2000年1月刊)に、こんなふうに記されています。

《平成元年(一九八九)、百年に一度の流氷異変が起きた。この年の冬、流氷はついに接岸しなかった。だから、気象台の記録には、接岸初日、海明けとも<なし>となっている。流氷初日はあった。二月二日に流氷は沖に見えたものの、近づきもせず春を迎えてしまったのだ。》

いまにして思えば貴重な冬を経験したのですが、あのときは、もしかしてもう流氷は来ないんじゃないかと、みんな、半ば本気で思ってました。強い北風が吹くたびに、ユースのかあさんが「流氷が来る風よ!」と言うものだから、そのたびに(ものすごく寒い中で)外に出て行って、ユースの隣の太郎山に上がって、オホーツク海のほうを眺めてみるんだけど、海はただひたすら青い、という経験を、何度したことか(北風が吹いてるときだから、ホント、もう、寒くて大変なのよ)。

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