熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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科学的とはどういう意味か/森博嗣

大震災(後の報道や反応)を受けて書かれたものかと思ったら、企画のほうが先にあって、執筆にかかろうかという頃に大地震が起きた、ということだそうで、そういう意味では、けっして近視眼的な内容の本ではない。

まえがきから引用:
だからこの本に書いた意見は、「これで科学を好きになってほしい」「少しでも興味を持ってもらえれば嬉しい」ということではない。「科学から目を背けることは、貴方自身にとって不利益ですよ」そして「そういう人が多いことが、社会にとっても危険だ」ということである。

さすが森博嗣、冒頭から豪速球だ。「難しい理屈はいいから」「結論だけよこせ」という姿勢は思考停止であると述べたうえで、こんなことを書いている。

62〜63ページから引用:
「数学なんか社会に出たら、なんの役にも立たない」という言葉も、社会に出てある程度の経験をした者が発したものにちがいない。しかし、学校で学んだ科目のうち何が社会で直接的に役立つのか、という観点からは、僕はむしろ、「算数や数学ほど社会で役に立つものはない」というまったく反対のことを感じるのである。
 ここが、おそらく本書の一番重要な、いわば焦点というべき部分だろう。
 既に書いたように、算数や数学、そして物理といった科目が教えてくれるのは、「道理」というものの扱い方、すなわち、ものを考える「方法」である。勉強とは「言葉を覚える」ことだ、と思っている人には、数学が実社会で役に立つものには見えない。つるかめ算が役に立つような場面はないし、微積分の能力が求められることもまずない。しかし、これらの精神ともいえるもの、すなわち「科学」の「方法」は、まちがいなく現代社会の基盤を成している。

そうなのか。私は、むしろ、社会に出てある程度の経験をしてから、数学(数学的思考)の重要性に気づいたんだけどな。小学校で習った、たとえば「底辺かける高さわる2」は、そのまま暗記しろとは教わらずに、こういう理屈でこういう公式が導きだされるんです、っていう教わり方をしたような記憶があって、だから(たまたま中学受験なんかしちゃったんですけど)中学受験のときに詰め込まれたつるかめ算の類(とにかくやり方を覚えなさい的な教わり方)には、ものすごく違和感あったんだよなあ(ということに、今ごろ気がついたよ)。でも、公式を機械的に暗記するんじゃなくて、なぜそうなるのか?がわかれば、じつはどうってことないんだよなあ(中学受験というのは限られた時間の中でやらなきゃいけないから、そういう時間のかけ方ができなかったのだろうなと、これまた今になってみるとよくわかる)。

こんなことも書いてある(157ページ):

 放射線量の測定値の変化を、自分でグラフに描いた人も中にはいたはずだ。残念ながら、たしかにリアルタイムで刻一刻と変化する数値データは、沢山は公開されていなかった(測定には人員も設備も時間もかかるからだ)。「目に見えないから怖い」という気持ちも当然であるけれど、少なくとも測定ができるのである。測定ができるものを、「目に見えない」と表現するのは言いすぎだろう。そんなことをいったら、力だって、重さだって、目には見えない。多くのものは測らなければわからない。
 測定値をきちんと捉え、それによって各自が判断することが大事だし、それしかないのである。こんな事態になっても、数字から目を逸らし、「数字なんて当てにならない」なんて言う人がいるのだ。やはり科学を遠ざけることの「危険」を感じずにはいられなかった。

刺激的な内容ではあるが、軽いタッチの新書なので、ぜひ、多くのみなさんに読んでいただきたい(まあ、しかし、同じ幻冬舎新書のベストセラーが、武田某氏の環境問題の本だったりするのが、アレなんですけど)。
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