熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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西村京太郎が描く冬の釧網本線

現時点での西村京太郎氏の最新刊です(『札沼線の愛と死 新十津川町を行く』は2月25日初版第一刷発行、こちらは3月10日第1刷)。

書店の店頭に並んでいる状態(=帯が付いている状態)だと、わかりにくいのですが、表紙カバーの下の部分には、タンチョウが描かれています。

西村京太郎の本の表紙

タイトルにもあるぐらいだから、タンチョウが重要なキーワードの一つになるのですが、ミステリーなので、これ以上の内容の紹介は、しません。

第三章「釧網本線」の中で、十津川警部は、こんなことを語っています。

《釧網本線というのは、完全な、観光路線だね。終点の網走も、こちらの始発駅の釧路も、観光都市だ。そのほか、百六十六・二キロの周辺には、釧路湿原があるし、摩周湖もある。さらに途中で降りれば、カヌーを操って釧路川を、往復することもできる。運がよければ、列車の中から、タンチョウヅルやエゾシカを見ることもできる。昨日は、運がいいことに、キタキツネを見ることができたよ。》

ここで何か突っ込みたくなるマニアな人たちもいるでしょうが(^^;)、ちゃんと、次の台詞で、別の登場人物の言葉で、十津川警部の話の間違い(というほどの間違いでもないけど)がフォローされているのが嬉しいところです。

《これは釧路駅で、駅員から聞いたんだが、釧網本線というのは、本来は、網走が始発駅で、今、われわれがいる、釧路駅は終点らしい。だから、網走発釧路行きの方が、下りなんだ。今度、われわれが乗ることになっている『快速しれとこ』は、上りの、列車ということになってくる。》

釧路駅

いまや貴重な、国鉄型民衆駅(かつては地下にもお店がありました)。ずっと、このまま残してほしいけど、さすがにくたびれてきてるし、もはやこんな巨大な建物は不要だろうから、いずれ、取り壊しってことになるんだろうなあ…

 

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SINCE 2017 WINTER



流氷物語号の話です。

昨年まで、流氷観光の目玉商品の一つとして運行されていた流氷ノロッコ号が、牽引するディーゼル機関車の老朽化で運行終了となり、今年から新たに登場したのが流氷物語号。ノロッコ号のような特徴のある車両ではなく、もともと普通列車に使われている一般型のディーゼルカーの車体にラッピングをして、座席にカバーを付けただけで、全車自由席、なので、全国各地でなお増殖中の観光列車の仲間に入れるのは、正直、厳しいです。どちらかといえば、昔ながらの、波動輸送対応の季節臨時列車に近いかもしれません。

ケチをつければキリがない。1両に36席のクロスシート席があって、2両だから72席で、全車指定席にして520円とれば、1列車あたり37,440円の増収になって、1日4本ならば149,760円。2月の1ヶ月、28日間に換算すれば、4,193,280円。平均乗車率を60%で計算しても250万円余の増収になるはずで…とか言いたくなるけど、目下、JR北海道は、ぎりぎりのところで車両のやり繰りをしていて、予備車を持つような余裕はない。ぼくが乗った日も、2両のうちの1両は、ラッピングのないキハ40でした(でもヘッドマークはちゃんと付いてました)。そう考えると、指定席を設けるのは、難しいのかもしれない。

いやいや、そんなこと言わないで、やりようはいくらでもあるでしょう…というのは、まあ、そうだとは思うんですが、でも、この状況で、専用車両が用意されただけでも、大変なことだと思うのです。そういうこと言うと「甘すぎる」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、いろんな事情を見聞きすると、たかがこれだけのことでも、実現させるのは大変だったのです。



この日のボランティアスタッフは、オホーツク人の衣装に身を包んだKさん(よく知っている人だから本人に許可もらってないけどそのまま載せちゃいます)。肉声でやってるから、車両の後ろのほうにはよく聞こえてないかもしれない。でも、これでいいんだと思いました。観光バスのバスガイドのイメージがあって、ガイドというのは、どうしても、マイクを使って喋らなきゃいけない、みたいな固定観念があるんだけど、昔の列車、ボックスシートで向かい合わせの汽車って、たまたま乗り合わせた地元の人から、いろんなことを教えてもらったりしたじゃないですか。

たとえば、ぼくは、初めて北海道に来たとき、湧網線の車内で、向かい側に座っていた人から、あれはビートの畑で…というのを教えてもらって、初めてビートという作物のことを知ったわけです。そういうときに、マイクは使わんよね。それを、少し規模の大きな形でやると思えば、べつにマイクがなくたっていい。

この日は知床斜里駅を出てしばらくしたところで、陸地近くまで押し寄せてきている流氷を見ることができました。そのポイントが近づいたところで、Kさんが車内をまわって、もうすぐ見えますよ〜と言うと、お客さんがみんな海側に寄って、ロングシート部分の人なんて窓を開けちゃって(寒いだろ(^^;))、そこをみなさんが譲り合って、どうぞどうそ、なんて感じで、写真を撮ってる。あれは、生声ガイドが近くまで来たから作れた空気で、というのは言い過ぎにしても、スピーカーからの声だけでなくリアルなガイドさん(かなり怪しい出で立ちですけど)が声をかけたことで和んだ部分も、あったと思うのです。



この、手づくり感いっぱいの車内販売にしたって、JRの営業列車内でやるのは、大変だっただろうと思います。北海道キヨスクとかじゃなくて、地元の、いわば素人が売ってます。そんなにバカ売れするわけじゃないけど(だからプロが専業でやるのは難しいんだろうけど)、せっかく乗ったのだから、お土産っぽいもの、ほしいじゃないですか。いわゆるワゴンサービスじゃなくて、こういう駅弁売り的なスタイルで来られると、なんとなく、車内が華やいで、楽しい気分になれるんですよね。

観光列車って何だ?という定義はさておき(そういう話を始めるとこれは観光列車ではないって話になりかねないので)、これもまた、ローカル線を活かした観光の、一つのスタイルです。温故知新的な、古くて新しいスタイル。できる人が、できることをやっていく。ただし、ちょっと背伸びをしながら、汗もかきながら。その中には、嫌な思いをすることもあるだろうし、きついことだってあるだろうけれど、そうやって、地道に、やれることをやっていくことからしか、新しい道は拓かれない。そんなことに、あらためて気づかされた、流氷物語号の短い旅でした。

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釧網本線はすごかった

もはや先月の話になってしまいましたが、14〜15年ぶり(たぶん)に乗った釧網本線は、やっぱり、すごかった。



14〜15年ぶりとはいえ、その間、釧網本線とまったく縁がなかったわけではなく、浜小清水と北浜の間はDMVの試験運行のときに乗っているし、その後には仕事で標茶に行ったときに釧路〜標茶間を乗ってます(どうしてわざわざ汽車で行くのか?みたいなことを言われましたけど<地元の人にとっては釧路から標茶まで列車で行くという選択肢はないんですよね)。昨年は、釧網本線を世界遺産にという動きが始まったこともあり、ひさしぶりに全線乗り通してみようと、うまい具合に網走と釧路で仕事が発生したのでその間を釧網本線でつなぐ予定を立てていたのですが、出かける直前に台風が相次いでやってきて、釧網本線は全線運休(結局レンタカーで移動)。そのときは沿線を走りながら、いくつかの駅には立ち寄っているので、14〜15年ぶりとはいっても、なんとなく雰囲気はわかっていた…つもりだったのですが、やっぱり、すごかった。

釧路を出て、東釧路で根室本線と分かれると、まずは左側に阿寒の山々が、真っ白な姿を見せてくれます。やがて釧路湿原の中に入っていき、もうそこらじゅうにシカが出てくるし(アトラクションみたいだけど野生です)、高い樹木の上に黄色い嘴が凛々しいオオワシが止まっていて、そのうちタンチョウまで出てくる(丹頂鶴ではなくてタンチョウですから、という話は、小清水ユースでヘルパーやってるときによくしていた話です)。線路しかない湿原の中だから、道路よりもずっと野性味あふれるコースであるわけで、積雪の中にシカの歩く道があるのが見えたりする。

そのうちなんだかへんな匂いがしてくるのは、硫黄山が近づいた証拠。



これこそ、釧網本線の原点です。釧網本線が開通する前に、ここから硫黄を運び出すための鉄道が敷設されました。開通したのはなんと1887年、北海道で二番目に古い鉄道です。この鉄道(安田鉱山鉄道→釧路鉄道)は釧網本線の工事が始まる前に(硫黄相場の世界的下落や硫黄資源の枯渇を背景に)経営難で廃止されてしまうのですが、その路盤の一部は、現在の釧網本線のルートとして活用されています。

当時、硫黄山から敷かれた鉄道路線の終点は、標茶でした。標茶まで鉄道で運ばれた硫黄は「二十五石船」に積まれて、しばらく先で「五十石船」に積み替えられ、さらに「百石船」に積み替えられて釧路に送られた、というわけで、その五十石船が、昨日限りで廃止となった五十石駅の謂れでありますね。

そんな歴史を辿るツアーもあります(もう終了していますが)。



かなり興味深かったのですが、午前10時出発のこのツアーに参加すると、網走へ行けなくなってしまうので、後ろ髪引かれる思いで断念しました。なにしろ、川湯温泉10時33分発の次は、15時45分発まで、列車がないのです。

川湯温泉の昔のままの三角屋根の駅舎もいいし、駅舎内で営業を続けているオーチャードグラスも素晴らしい。いまどきの(でもないか)キハ54は川湯から緑への峠越えも速度を落とさずに快調に走り(これは本来はよいことのはずなのだがあまりに快調に走るものだから物足りなくなってしまうのはマニア気質ゆえか(^^;)、下りに入ると右手に斜里岳がドーン!そして知床連山、流氷…と続き、しかもこの日は列車に乗らないと流氷が見られない日、というのは、この日の流氷は(鉄道駅でいうと)知床斜里と止別の間でしかほぼ見られなくて、その区間で海岸線に近づけるのは鉄道だけなのでした。

その先の藻琴山に濤沸湖、オホーツク海にいちばん近い駅・北浜、などなど、もう、なんだか、こんなところに普通運賃だけで乗っていいのか?と思っちゃうほど、すごいんだなあ。惜しむらくは、たとえば右側に斜里岳が見えても、あれが斜里岳で斜里岳ってどういう山で、とか、その向こうの斜里岳とは対照的に柔らかい姿を見せてくれる山は海別岳といって、とか、そういうことって、多くの人はわからないわけで(オレは知ってるぞと自慢したいのではなくぼくはたまたまかつてよく訪れていた場所だから知っているだけです)、ワンマン運転だから車内アナウンスは難しいかもしれないけれど、なんか、そういうのを教えてもらえるだけでも、旅行者は楽しくなるし、今度は違う季節に来てみようって思うかもしれないわけで、そういうのがあればいいなあと思うのでありますね。

考えてみれば、ぼくが道内の何箇所か、同じようなところを何度も訪れているのは、最初に訪れたときに「ここはこんな場所で、違う季節に来るとあれがこんなふうになっていて」といった話をユースホステルで聞かされたからで、そういうのがあれば、絶対に、ファンづくりにつながるんです。

ということを、そのときの車内でぼんやり考えていたら、知床斜里駅から乗った「流氷物語号」で、さらにいろんなことに気づかされたのでありますが、長くなってきたので、今日のところはひとまずこれまで。
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わが青春の釧網本線

このブログで釧網本線の写真集の紹介をしたのは、ちょうど1年前でした。そしたら(これがインターネットでソーシャルメディアな時代のおもしろいところで)写真集の作者から連絡が来て、じつはぼくは作者の人と会っていた時期があって、ぼくは釧網本線沿線を年に何度も訪れていた時期があるからその頃のことかと思いきや、作者の人と会っていた場所は礼文島だった、という話は、去年、書きました。あれからはや1年、その間に、いろんなことがありましたが、それはさておき。

先週月曜日のNHK(北海道ローカル)で、釧網本線の特集やってました。

テレビ番組 各駅停車おいしい旅 釧網線

ぼくが釧網本線をよく利用していたのは、1987年頃から1995年頃の間のこと。最初に行ったのは、北浜駅にほど近い、原生花園ユース・ホステル(通称「げんなま」)でした。



その後は、濤沸湖を挟んで対岸に位置する小清水のユース・ホステルにハマり、ヘルパー(介護ではない)もやりました。ホステラーとして訪れたときには北浜〜浜小清水駅〜止別のあたりをよく歩いたし(文字通り自分で歩いてました)、小清水ユースのペアレントさんが美幌ユースに移ってからは、網走乗り換えで、北浜や浜小清水のあたりを、行ったりきたりしてました。

今回の番組は「流氷物語号」がメインだったので

念のため書き添えておきますが、上の画面の前には、東釧路から網走まで、という路線図が、ちゃんと、出てました。

清里のユースにもよく行ったし(スタンプカードのスタンプ10個でもらったコーヒーカップは今なお現役です)、小清水の後は釧路・根室方面に出ることも多かったし、札幌から釧路まで夜行で来てとりあえず釧網本線の一番列車に乗って塘路あたりで下車してみるなんてのもよくあったし、川湯まで乗って駅前の風呂に入ってみたり…釧網本線には、20代の頃の思い出がたくさん詰まってます。
 

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喫茶「停車場」は31年目

昨日のブログを書くにあたって本棚から取り出してみた『気まぐれ列車に御招待』(種村直樹著、1989年、実業之日本社)には、種村さんとぼくが北海道を乗り歩いた記録が載っています(ぼくは、このとき、北海道で開催されたイベントの幹事でした<あの頃、道内在住でイベントを手伝ってくれたみなさんは、今、どこで何をしているのだろう…?)。

1987年7月28日の行程図

このイラストのイメージは、北浜駅の駅舎を活用した喫茶店「停車場」です。札幌から急行「大雪」で網走へ向かい、原生花園駅へ寄ってから、「停車場」でコーヒーを飲んだのでした。それは明確に記憶しているし、このとき原生花園駅を訪れたのは、原生花園駅がこの年に開業したばかりだったから、ということも覚えていたのですが、「停車場」もまた、種村氏にとって初訪問の場所だったことは、昨日、読み返すまで、すっかり忘れてました。

《貝がらのおまけつき入場券で評判になり、「オホーツクに一番近い駅」をキャッチフレーズに駅舎のまわりからホームまで漁具や貝がらで美しく飾りつけていた北浜駅が84年3月に無人化と聞いたときは、知恵のない話だなと思った。しかし、当分の間という条件で駅員配置がしばらく存続。JR化を前に近所の食堂の主人が簡易委託を引き受け、昨86年7月から喫茶「停車場」を開店し、釧網本線無人駅舎活用のパイオニアとなったのだ》(種村直樹『気まぐれ列車に御招待』p.80〜81)

つまり、去年は、「停車場」開店30周年だったわけですね。

同じ頃に、浜小清水駅に「汽車ポッポ」、止別駅に「えきばしゃ」、少し離れた川湯駅に「オーチャードグラス」と、無人駅を活用した飲食店ができて、上に書いたように原生花園駅ができて、釧路湿原駅ができて、といった具合に、この時期は(国鉄の分割民営化や釧路湿原の国立公園指定という背景もあって)釧網本線の観光路線化が急速に進んだ時期でした。

それから30年。いまでは、沿線の人口は減り、マイカーの普及率は高まり、釧網本線の利用者数は減り…という流れではあるのですが、でも、30年前も、駅が無人化されて廃れそうになったところを、そうやって、地元の方々が動いて沿線が活気づき、いったんは廃止された原生花園駅が復活したり、新たに釧路湿原駅が開業したりしているわけです。

時代は繰り返す。いやいや、当時よりもっと厳しい状況だよと言われれば、そうかもしれませんけど、30年前、種村氏が「知恵のない話だと思った」と書いてしまうような頃だって、同時代的には、もうどうしようもないほどに厳しいと感じていたのではないかと思うのです。でも、そこからわずか数年で、流れが変わっていったのです。

先人が築いてきた30年の観光路線への取り組みに敬意を表しつつ、どこかで流れががらっと変わるときが来るのを信じて、列車に乗れる人は乗る、乗れなければ(行けなければ)買って応援する、などなど、みんなで応援を続けていきましょう。
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