ぼくが生まれた頃、新幹線は新幹線でした。新幹線は東京と新大阪の間しか走っていなかったから、わざわざ東海道新幹線などと呼ぶ必要はなかったのでしょう。新大阪から岡山へ延長されたのはまだ小学校に入る前ですが、「ひかりは西へ」のキャッチフレーズは記憶にあります。その後の博多開業になると、交通公社の時刻表で何かを見た記憶もあります。当時、身近なところに鉄道愛好家はいなかったはずですが、我が家はマイカーどころか両親とも運転免許を持っておらず、出かけるときはつねに鉄道だったからなのか、時刻表はいつも置いてあったような気がします。
東北・上越新幹線(と一体で呼ぶのも今となっては不思議な感じですが当時はそういう表現が普通でした)の開業の頃はもう高校生だったし、川越に住んでいて大宮は身近な場所だったから、はっきりと記憶にあります。幼い頃からずっと、祖母宅への行き帰りに東北本線を使っていたから(福島県内の病院で生まれたぼくが最初に乗った路線は東北本線でおそらくは急行列車=現在えちごトキめき鉄道で走っている
観光急行のような列車=だったはずです)、そこから特急や急行がなくなるのは大事件でした。
少し前に東北・上越新幹線の開業時の列車名を思い出そうとしたものの、やまびこ、あおば、とき、まではすぐに思い出せたのに上越新幹線の速達タイプの名前がまったく浮かんでこなかったのは、自分の記憶も利用実態も東北に偏っていたからなのでしょう。そんなものはネットで調べればすぐにわかるものの、そこまですることでもないのと、思い出せないのが少し悔しかったこともあって放置していたのですが、先日の鳥塚社長のブログを見て、思い出しました。
トキエア 新潟−仙台線 就航か? | えちごトキめき鉄道社長(いすみ鉄道前社長) 鳥塚亮の地域を元気にするブログ
その後、東北・上越新幹線が上野発になり、御徒町で道路が陥没して、東京発になって、山形新幹線がミニ新幹線で開業して、という頃まではわりとよく覚えていますが、秋田、長野(行き)、八戸あたりになると、それまでに比べると鉄道への関心が薄れたのか、社会人として働くようになっていてそれどころではなかったのか、開業の順番すら怪しくて、長野行新幹線に初めて乗ったのは金沢延伸後だったし、秋田新幹線に至ってはいまだ乗ったことすらありません。旧田沢湖線には40年以上前に複数回乗っているのですが。
さらに、西鹿児島が鹿児島中央になり、八戸から新青森に延伸し、博多と新八代の間がつながり、金沢が終着になり、津軽海峡を越えて、西九州新幹線が開業しても、わざわざ初日に訪れる友人知人の様子をSNSで見てああそうなのかと思う程度で(さすがに地元の北海道新幹線は初日に乗りましたが)、西九州新幹線に至ってはこの文章をもう少し下まで書いてから思い出した(それで付け加えた)ぐらいの認識でしたが、今回の北陸新幹線の延伸には、これまでにない感慨を抱きました。
だって、敦賀ですよ。
これまでの新幹線の開業は、いずれも、在来線でも行ける(行けたのを知っている)ところばかりでしたが、東京から敦賀は、自分の記憶の中では直通列車がなかった区間です。その昔の「白鳥」に上野系統があったのは知っていますが、それは自分が生まれる前の話。ぼくが実体験として知っているのは、上野と福井を結んだ「越前」が精一杯です。
▼年表記がありませんが「越前」に乗ったのは昭和56年(1981年)のこと。
さらに遡れば、東京と敦賀の間には、国際連絡列車が走っていました。
▼時刻表復刻版1925年04月号より
まず新幹線があって、次にエル特急があって、寝台特急があって、その次に「連絡早見表」があって、その後から東海道線・山陽線を皮切りに各路線のページになるというのがぼくが慣れ親しんできた「国鉄監修 交通公社の時刻表」でしたが、1925年04月号(鐵道省運輸局編纂 汽車時間表 附汽舩自動車發著表 大正十四年四月號)は、まず「本土主要驛間聯絡」のページがあって、次が「海外聯絡」です。その最後にあるのが「日本・西比利亞間(浦塩経由)聯絡」で、東京から米原経由で敦賀へ向かい、敦賀からは浦塩斯徳行きの航路が週に1回あって、浦塩斯徳からは哈爾賓、さらには満州里へと至る接続時刻表が掲載されています。
敦賀駅の先にあった敦賀港駅までの海外聯絡(欧亜国際連絡列車)は、太平洋戦争が始まる直前まではあったらしい(←現時点で手元にちゃんとした資料がないため「らしい」と書いておきます)。
北陸新幹線の延伸区間に乗るとすれば、何かの用事で北陸方面へ行ったついでかなと考えていたのですが、いざ開業が迫って「敦賀」という文字を目にしたら(前から目にしてたはずなんだけど直前になってからなぜか)急にそんなことに気がついて、これは東京方面から通しで乗るべきではないかと考えたところで、そういえば来月には東海地方へ行く用事があったことを思い出しました(ぼくが遠くに行く用事といえばアレしかないんですけど)。
それは帰りに東海道新幹線に乗るのが楽しみでもあったから行くことにした用事であったのですが、東海道新幹線には(ふだんはほとんど縁がないのに)今年は1月にも2月にも乗ったからわくわく感が小さい。それなら塩尻経由はどうだと考えてから、そうだ、北陸まわりという手もあるじゃないかと調べたら、さすがは新幹線、なんと、米原から金沢、富山と大回りをしても、中央本線経由より速いのでした。
惜しむらくは紙のきっぷは発券できないであろうことで、「敦賀→大宮」の文字の記されたものを(写真でもいいから)残そうと思うとチケットレスが使えないことになり、運賃・料金がかなり高くなってしまいます。高いお金を払ってまで紙のきっぷを手元に残そうとは思わないわけで、そもそもかつての国際連絡列車は米原経由だったのですから東京から敦賀といっても違うわけで、そこまでこだわるつもりはありません。でも、ルートは異なるとはいっても、東京と敦賀が一本の列車で結ばれるということには、青函トンネルを介して上野と札幌が結ばれたこととはまた異なる感慨を抱くのであります。
えきねっとトクだ値が取れなければ普通にきっぷを買うことになるだろうから(そこもまた必ずしも安いきっぷにこだわっているわけではない)、そうしたら「敦賀→大宮」の文字が表記された紙のきっぷを手にすることになると思われ、それならそれも悪くないと考えれば、えきねっとトクだ値が取れるかどうかを心配することもなかろうと都合よく解釈する自分はまったくもってオメデタイ人だと思うばかりであります。