熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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今日の15周年と36年前の15周年

近所の商業施設に行って買い物をしたら「15周年でお花を差し上げていますので、よろしければどうぞ」と言われ、ありがたく頂戴してきました。



2つあるのは、2つのテナントで買い物をしたら、それぞれ別々にくれたからです。



せっかくなのでデスクの上に置いてみた。



15周年で思い出すのは、レイルウェイ・ライター開業15周年のこと。



毎日新聞社を辞めた種村さんが「レイルウェイ・ライター」として独立開業したのは、国鉄武蔵野線(府中本町〜新松戸)の開業日と同じ1973年4月1日。15周年記念イベントは1988年4月3日、会津鉄道で行われました。



当時学生だったぼくは実行委員会の一人だったのですが、当日のことはほとんど覚えていません(むしろ運営側だったから余裕がなくて覚えていないのかも)。ただ、強烈に記憶しているのは、最初の会合で「今度のイベントは参加者からお金を集めて行うものなのだから、これまでの友の会の行事で幹事を務めた経験があってもそれとは違うことをしっかりと心得てほしい」といったことを(実行委員会のメンバーには加わらなかった)社会人の方から言われたことです。電話のかけ方など社会との接し方はレイルウェイ・ライター事務所でのアルバイトである程度わかっていたつもりでしたが、15周年記念イベント実行委員会での仕事を通じて学んだこともたくさんありました。



実行委員会のメンバーの中心は時間があって動きやすい学生でしたが、代表には社会人を置くべきだろうという話になって、小田急電鉄の車掌だった高萩徳宗さんに務めていただくことになりました。

高萩さんは、その後、小田急電鉄を退職し、1999年に有限会社ベルテンポ・トラベル・アンドコンサルタンツを創業、現在は同社の代表取締役として体に障害のある方や高齢の方の旅のサポートを行うとともに、サービスコンサルタントとして活躍しています。ぼくは種村直樹レイルウェイ・ライター友の会時代はさほど親しかったわけではなく、15周年記念イベントの後はとくに接点はなかったように思うのですが、高萩さんが起業してテレビ番組に出演したり多くの著書を出されたりしていることは、友の会の会員から聞いて知っていました。

会津鉄道のイベントの後、高萩さんと再会したのは、10年ほど前でした。高萩さんが『いい旅のススメ』を出されたとき、札幌で講演会があって、そこに参加させていただき、Facebookで「友達」になりました。

それ以来、高萩さんのFacebookの投稿やブログなどを拝見していて、ときに高萩さんのブログを自分のFacebook上で紹介することもあり、先日も高萩さんの問題提起を自分のFacebookで紹介したところ、えちごトキめき鉄道の鳥塚亮社長から「高萩さんとは面識がないのですがブログで取り上げても問題ないでしょうか?Facebookの投稿が公開設定なので問題ないと思うのですが(以下略)」との問い合わせがありました。ぼくは、高萩さんがえちごトキめきリゾート雪月花を高く評価されていることを書き添えたうえで「問題ないと思います」と返信しました。その後、鳥塚さんは高萩さんに直接連絡を取ったようで、鳥塚さんのブログはこのような形で公開されました。

ノブレス・オブリージュ | えちごトキめき鉄道社長(いすみ鉄道前社長) 鳥塚亮の地域を元気にするブログ

36年も前に一緒に仕事をした(会社の仕事という意味での仕事ではないのですがあれは立派な仕事でした)だけで、それから何があったわけでもないのに、間を取り持つことになったのは、とても不思議な感じがします。そもそも自分が鉄道に関わる仕事をすることになって鳥塚さんとお付き合いしていることが不思議なのですが、人生にはいつ何が起きるかわからないのだから、真面目に生きなきゃいけないというか、最低限、へんなこと、悪いことをせずに生きていればいろいろとおもしろいことに出会えるのだなあと実感しています。

高萩さんの最新刊は『旅の作法』。昨今はやりの見開き2ページワンテーマのようなマニュアル本あるいは自己啓発本ではなく、体験に基づいたエッセー集です。章ごとのまとめのような言葉もなければ図表もないから、内容の解釈は読者に委ねられていますが、それであるがゆえに、人生を豊かにしてくれる本です。未読の方、ぜひぜひ、ご一読を。

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はたしてファンなのか

明日、新幹線が敦賀まで延びることは、もちろん知ってます。



でも、この数日、SNS上で多くの友人知人が今週末に北陸方面で出かけると書いていることがそれとは結びついていなくて、なんか今週はやたらと北陸へ出かける人が多いんだな、ぐらいの感覚でした。北海道内にいる人がキハなんとかがどうこうと書いているのも同じで、ピンとこない。

だからといってダイヤ改正に関心が向いていないのかといえばそんなことはなくて、来週になると乗車券往復割引きっぷやすずらんオプション券がなくなって北斗が全車指定席になることは強く認識しています。なぜかというと、それらは仕事に直結するからで、今週はすずらんだと安く行けるけど来週になったら前日までにえきねっとで買わなければならないよね、という話は、身近なところではしょっちゅう出てくる話です。

敦賀の話は遠すぎて実感がないとか、キハなんとかの車両の話にはもともとあまり関心がないとか、そういうことはあるにせよ、根本的には、過去の3月に比べれば忙しくないとはいっても、やっぱり、年度末でやらなければならないことがたくさんあって、頭の中がそっちで満たされていて余計な情報が入ってくる余地がない、ということなのでしょう。こう見えても(?)、意外に真面目なのです。

あとはいまだ続く東京マラソンロス。大会が終わってから10日も過ぎてからようやくテレビ中継の録画を見て、ああ、終わっちゃったなあと思いました(見終えてから少し泣いた)。ゴール後のインタビューで、オリンピック出場を逃した選手たちが次の目標を問われて(そんなこと聞くなよ!)「まだわからない」と答えるのを見ながら、そうだよなあと思いました。トップアスリートと一緒にするなと言われそうですが、ぼくも、そうでした。今はそれなりに日数が経過しているから、サブフォー目指してまたがんばろうと気持ちを切り替えられてますが、でも、まだ、東京マラソンロス的なものがあって、頭の中のメモリ容量が通常より小さくなっているのだと思います。そこに期末仕事が入ってくれば、遠くの出来事に思いを寄せる余地はますます狭まります。

とりあえずは仕事して、明日は札幌ドームへ行きましょう。

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傘もささずに福住

思い出語らず大阪



というわけで、今日は札幌ドームでコンサドーレの今季ホーム初戦を見たのでありますが、東京マラソンロスあるいは流氷物語号ロスで(?)ロスインディオスと何も考えてないヒトになっていたぼくは、フードのついていないコートを着ていったのに帽子も持っておらず、試合終了後、もちろん傘も持ってなくて、バサバサと春の湿った雪に濡れながら地下鉄福住駅まで歩いて帰りました。人混みに積雪で歩道が狭くなっていることもあってなかなか進まず、そのうち頭や首が濡れてきたら、冷たい雨の大阪マラソンで低体温症になったときの記憶が甦ってきてちょっと怖くなってきたことに驚き、いまだあれは疲れて休みたかっただけだったのではないかと考えようとする自分がいるのですが、この程度の冷たさでも思い出してしまうのだから、やっぱりあれは無理だった(=自ら救護所に入って棄権したのは正しかった)と思いました。それにしてもこんなふうに記憶が甦ってきてしまうというのは困ったことで、あの記憶を払拭するには、どこかで一度、雨のレースを走らなきゃいけないのかもしれない。あるいはもう少し暖かくなってきたら、あえて雨の日に走ってみるのがいいのかも。

昨日は天気も悪くなかったし右足の違和感もだいぶ消えてきたから走ろうかとも思ったのですが、しばらく休んでくださいと言われたので完全休養にしたら、かなりぐだぐだになって、生活のリズムが崩れました。それで気がついたのは、食べるものを気にしなくてよくなると途端に太りそうなものを口にするようになる、ということで、まあ、たまにはそういう日があってもいいんですけど、やっぱり次の目標に向けてちゃんと生活を管理したほうがいいのだろうなあと思ったことでした。

去年の東京マラソンの後は、4月か5月にはサブ4で「走れるだろう」と考えていたつもりだったのですが、今になって振り返ればサブ4で「走らなきゃいけない」と考えてしまっていて、体の疲れもさることながら、心理的にずっと緊張状態にあったことのほうが、その後に大きな影響を与えたのだろうと思います。そのうえ6月にはコロナ後では最大の旅をしたことで自覚以上に疲労が蓄積していたと想像され、そんな状態なのに函館マラソンのフルを帽子も日焼け止めもなしで走った(帽子は持っていたのに間違えて荷物の中に入れたまま預けてしまった)ことで、具合が悪くなったのでしょう。記録を見ると、函館マラソンの3日後(水曜日)の夜に「喉が痛いような気がする」と書いてあって、その翌々日(金曜日)の朝に37℃だったので仕事を休み、その3日後(翌週の月曜日)に熱は下がったからそろそろ仕事に復帰しようかと思っていたら咳き込んだときに本格的ぎっくり腰になって、結局、ランニングを再開したのは函館マラソンから27日後のことでした。

もうトシなんだからね。シーズンオフは積極的に作らなきゃいけないのですよ。マラソンを始めてからは雪が積もる冬が自然とシーズンオフになっていたのが、一昨年の3月に東京マラソンに出たら意外にやれることがわかって、もっとも一昨年の東京マラソンはそんな時期に大会に出るのが初めてだったから調整方法がわからなくて直前に腰痛になってしまい(雪道で転んだ+仕事が忙しい時期なので長時間座っていたため)やめようかと思ったぐらいに状態の悪い中で走ったのですが、その経験があったから、昨年はかなりいろんなことに気をつけて望外の結果が得られて、その勢いで春から夏へと進んでいったのですが、それまではいつもなら休んでいたはずの時期にも休まないままだったから6月から7月にかけてあんなことになっちゃったんだと、昨日、去年のメモを見直していて、思いました。7月がそんな状態では、北海道マラソンは走れるわけないって(去年の北海道マラソンは15kmで棄権しました)。

そういうことを考える機会が得られたのだから、昨日のだらだらな休日も、それはそれで、有意義だったのでしょう。

今日は本州でフルマラソンを走っているチームメンバーの走りをアプリで応援しつつ、名古屋ウィメンズマラソンのテレビ中継を途中まで見て(後から結果を知って7年前の名古屋で云々と言われ続けていた安藤選手が優勝してPB更新したことを知りとても嬉しかった)、それから札幌ドームへ行ったのですが、先発はともかくサブに実績のある選手がほぼいないメンバーだったから、正直なところ、惨敗を覚悟してました。それが、終盤はむしろ押し込んでいて、ドーム内が手拍子で満たされるような展開だったので、負けてこんなことを言うのもなんですが、まあいいかと思って帰ってきました。ただ、あのピッチは、どうにかならんかったのかな。ボールは止まるわ、ドリブルしてる選手は躓きそうになるわで、剥がれたところを選手が埋めるなんてのは、J1レベルではひさしぶりに見たような気がします(以前はよくあったけど)。それと、ホームの初戦で相手が浦和でも観客数が1万8千人台というのは、ちょっとショックだわ。負けたことよりそっちのほうが気になるぐらい。

地下鉄大通駅にこんな大きな広告を出してるのにね。



攻め勝つと言ってるわりには3試合やって無得点なのはいかがなものか、ですが、2018年だって開幕3試合は1分2敗、4試合目で昇格組の長崎にアディショナルタイムの得点でどうにか勝ったといった具合だったのが、終わってみれば4位だったのだから、まだまだ、これからですって。30年近くも応援していれば、開幕3試合終わって下から2番目だからといって、だからどうした?なのであります。
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ロス疑惑2024

東京マラソンと流氷物語号が同じ日に終わってしまった。



東京から帰ってきたのが月曜日の夜で、火曜日も水曜日も何事もなかったように普通に仕事していたものの、必要最小限のこと以外は何もやる気にならず、ぼんやりとしていても仕方がないからさっさと寝ると、そのまま朝までずっと寝ていて、夜中にも早朝にも目が覚めることがない。年を取ると夜中に目が覚めたり、早寝すると夜中に起きてしまって眠れなくなったりするものですが、そんなことはなく、ひたすら寝ているわけです。起きれば仕事には行くけれど、それ以外は何をやるにも億劫で、何かに心を動かされることもない。

東京マラソンロスに流氷物語号ロスが重なって、虚脱状態に陥っているのではないか。

それなら去年だってそうなっていてもおかしくなかったはずなのに、去年はなぜそうならなかったのかと、去年の今ごろのことを振り返ってみれば、東京マラソンが終わっても4月に別の大会が控えていたし(もともとはこの4月の大会で自己ベストを狙うつもりだったのにその前に自己ベストが出ちゃったんだよね)、流氷物語号が終わっても3月21日に海明け物語号があった。それに去年の流氷物語号の運転は2月の最後の日曜日が最後で、東京マラソンより1週間早かった。

…と、昨夜までは、考えていたのですが。

今朝、最近にしては珍しく、早朝、まだ暗いうちに目が覚めて、まだ起きなくてもいいだろうと寝ていたかったのに、眠れなくなっちゃったんだな。

脚が痛くて。

いやはや、こんなことが、フルマラソンを走ってから6日後に起きるとは。

フルマラソンの当日や翌朝、脚が痛くてよく眠れないことは過去にもあったけれど、6日後は初めてです。具体的にいうととりわけ痛い感じがするのは腿裏、つまり、マラソンで(うまく走れているときに)いちばんよく使うところです。そんなところが6日後に痛くなるわけはないから、たぶん、これまでも、痛かったのでしょう。ただ、意識していなかっただけで。

なんのことはない。東京マラソンロスでも流氷物語号ロスでもなく、ただの疲れだったんじゃないの?金曜日までそれなりに仕事して、それなりになんとかなって、緊張が解けたところで、疲れが出てきたんじゃないんですかね。

考えてみたら、ロスインディオスと虚脱感だったら、次のマラソン大会の検討なんかしてないわな。検討したどころか、参加を迷っていた某大会にエントリーしちゃったもんね。昨日だって、この週末からはちゃんとランニングに復帰しなきゃと思いつつ、でもまだ大阪で痛めた右足が気になるし、オフなしにずっとやってきたのだから今週末ぐらいは休んだほうがいいんじゃないかと自分に言い聞かせたりしてたぐらいで、抜け殻でもなんでもないんだって。

マラソンの控えていない毎日は自由な毎日で、寝る時間も起きる時間も、デスクワーク中の姿勢も、飲むものも食べるものも、何も気にする必要がないのですが、やっぱり、なんか、張り合いがないかもしれない、というのが、京都・大阪・東京の3連戦を終えて感じることで、3連戦はさすがにきついけど(去年の秋はうまくいったけれど冬は条件が異なるからきついんだね)、まだまだ続けていこう、またサブ4を目指して頑張ろうと決意した土曜日の朝、なのでありました。
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4年に1回の日に60年に1回の話

本日は4年に1回の2月29日。ぼくは2月27日生まれなのであと2日遅かったら2月29日生まれという稀少な存在になれた…ということはなくて、ぼくが生まれた年の2月は28日までしかなかったから、あと2日遅かったら、3月1日生まれでした。

2月29日は4年に一度ですが、もうすぐ、60年に一度しかない年がやってきます。ハレー彗星ではありません。それは76年に一度です、といっても、これも若い人には通じない話なのでしょうが、それでも輝くハレーの雫を髪に散りばめていた頃に物心がついていた人ならば、まあ、わかってもらえるのではないかと思います。でも、60年に一度のほうは、ほぼ同年齢の人でないと、「ああ、そういえばそんなことあったね」程度だろうと思います。

日本の年間出生数の推移を折れ線グラフに描いてみました。



出生数は棒グラフで表現されることが多いのですが(年単位で決まった数値だから棒グラフにするのが適切だと思う)、1960年代後半にある謎の落ち込みをわかりやすくするために、あえて、折れ線グラフにしました。

上のグラフで急峻な谷のようになっているのが、60年に一度の特殊な年=丙午です。読みは「ひのえうま」です。青島幸男さんの直木賞受賞作のタイトルでご存知の方もいらっしゃるでしょう、というか、それ以外で「丙午」という言葉に出会ったことは、ほとんど記憶にありません。

ぼくは丙午の翌年の2月生まれですが、学年でいうと丙午の学年です。

上のグラフでわかるように、丙午の年は、極端に出生数が落ち込みました。前年比だと25%減です。ちなみにその翌年(ぼくが生まれた年)は前年比42%増です。

小学生の頃、ぼくの前後の学年は4クラスだったのに、ぼくの学年だけは3クラスでした。子どもの頃からずっと、「君たちは少ないから受験に有利だ」「君たちは少ないから競争がなくて楽だ」と言われ続けてきました。

そういう話を一つ下の学年の人の前ですると「あなたたちの翌年のわたしたちは多かったから苦労したのだ」と言われることが多いのですが、でも、ぼくらはぼくらで、へんなコンプレックスを植え付けられてきたような気もします。自分たちは競争をしていないから能力が低いのではないか、みたいな(もしかするとそういうことを言う大人がいたのかもしれない)。人数が少ないから楽なんだよと言われ続けてきたけれど(これは本当にいろんな場面で言われ続けてきた)、楽だと感じたことはまったくなかったし、大学受験になれば浪人生が入ってくるから関係なかったし。

なぜかこのところ丙午またはその次の年に生まれた人と会うことが多くて、でも、もっと年上の人でも丙午のことって意外に知らなくて、この話題で盛り上がれるのはぼくと同級生か一つ下の学年の人だけなのですね。

ぼくは大学は1年遅れたので、就職時はバブルど真ん中の半沢直樹の世界なんですが(1989年12月末の日経平均株価のピークアウトをもってバブルが崩壊したということが最近は通説みたいになってますが実際にはその後もしばらく異常な好景気は続いていていわゆる景気の山は91年2月だし少なくとも91年4月採用までは会社訪問解禁日の「拘束」が露骨に行われてました)、その辺になるとみんなの共通体験というわけにはいかないから、それほど盛り上がることにはならないのですが、「丙午」の話は、丙午の人と丙午の翌年の人が出会うと、ものすごく盛り上がる話題なのです。

ぼくは若い頃から次の丙午が来たときにはどうなるのかがノストラダムスの大予言と同じぐらいに気になっていたのですが、恐怖の大王が降りてくるよりも前に1.57ショックがあって、さらに近年はもはやそれどころではない水準にまで下がっているから、仮に丙午の話が出てきても(絶対に話題になるよなあ←同世代の人たちは鉄道150年並みに話題にしたがるはずだ)、それで出生数がさらに落ち込むようなことにはならないのでしょうね。

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