熊式。

大熊一精(おおくま・いっせい)の日々あれこれです。
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スラントノーズが登場したころ

「北の国から」には、ときどき、列車が登場しますが、登場人物が利用するのは、ことごとく、急行列車です。当時はまだ石勝線の開通前で、札幌と釧路を結ぶ特急列車は富良野を経由していたから、特急を利用することも可能だったはずなのですが、特急列車はまだ特別な存在だったということなのでしょうか…って書きながら思ったんですけど、当時ぼくは埼玉県民で福島県内の東北本線沿いに親戚がいて夏休みはいつもそちらに行ってましたが、《ひばり》に乗るのはちょっと特別で、《まつしま》《ざおう》が定番でしたね、そういえば。

富良野を通る特急列車は《おおぞら》であり、《おおぞら》といえばキハ183系、というのが、35年前に初めて北海道を訪れたぼくのイメージ。そのキハ183系の初期型、いわゆるスラントノーズと呼ばれる車両は、現在もなお、石北本線を中心に活躍中です。

「スラント」「スラントノーズ」なる言葉はマニア用語と思われがちですが、キハ183系のデビュー直後の鉄道ジャーナル(1980年5月号)の巻頭ルポに、「スラントノーズ」という言葉が登場しています。

鉄道ジャーナル1980年5月号

《183系はいかつい角張った顔を引きしめるようにして、吹きさらしの函館運転所の留置線で道東への遥かなる旅立ちを待っていた。降りしきる雪が屋根や前面の突起物につもり、時おり乱れ飛ぶ雪片が特徴あるスラントノーズの真紅の肌に白く散った》(「80年代の国鉄ニューフェイスに試乗 氷雪の大地の新鋭ランナー 183系ディーゼル特急<おおぞら> さいはての旅路…」鉄道ジャーナル1980年5月号)

《おおぞら》なのに、なぜ函館?と疑問に思うかもしれませんが、当時は、函館から釧路行きの《おおぞら》がありました。鉄道ジャーナルに乗車ルポが乗っている《おおぞら》は、函館11時40分発で、釧路21時55分着。走行時間、10時間15分。

記事 氷雪の大地の新鋭ランナー

この記事の中に、車掌さんが183系を紹介したアナウンスの全文が載っていて、ここでも、「スラント」という言葉が使われています。「スラント」は、最初から、国鉄公認だったわけですね。

《183系の紹介アナウンス/御承知と思いますが御乗車いただいておりますこの車両は2月10日から運転の、北海道の雪と寒さに十分たえられるように新しく開発しました、183(イチハチサン)系の新型特急車両でございます。先頭の形はスラント形と言いまして高運転台でございます。安全性をかねた斬新なデザインの車両(くるま)となっております。座席は回転式のリクライニング方式でございまして、座席間隔も新幹線と同じ94センチメートルでございます。通路の出口は自動ドアとなっております。車体には耐寒耐雪の空気バネを、またゴムでつつんだコイルバネを使用し、揺れは少なくなっております。そのほか自動消火装置を搭載し、安全面にも万全を期しております。なお、食堂車はついておりませんが、車内販売ではお弁当や各地の名産物など各種とりそろえてございます。国鉄では今後も、このような新しい車両の導入を進めておりますので、みなさまの御利用をお願い申し上げます》(鉄道ジャーナル1980年5月号)

赤い帯に青地のヘッドマークは、いま見ても、じつに美しいデザインです。なにより、この、国鉄らしからぬカクカクした顔に、よく似合っています。

それにしても、このときの鉄道ジャーナルの表紙、攻めてるなあ。
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広尾駅って知ってますか

六本木と恵比寿の間にある〜

そっちじゃなくて、こっちの話。

広尾駅の入場券

昨日のブログに書いた急行狩勝4号に乗った日というのはこの日でありまして、札幌0735〜(急行えりも2号)〜1131様似1140〜(国鉄バス)〜1245えりも岬1335〜(国鉄バス)〜1442広尾駅15時31〜(広尾線普通)〜1724帯広という行程の後、帯広駅17時40分発の急行狩勝4号に乗り継ぎ、19時43分着・45分発の富良野駅で、蛍が買ってもらったみたいなラベンダーの花束を抱えた女子大生(かどうかはわからないが女性観光客グループ)が乗ってきたのでした。

北の国からDVDマガジンの最新号(第9号)のDVDの後半部分、連続ドラマの第18回は、1981年の7月26日という設定です。つまり、ぼくが狩勝4号に乗った日の、ほぼ、1年前。ぼくが乗った狩勝4号のスジは、当時は、狩勝6号であり、狩勝6号が富良野に到着して発車する場面が、ドラマの中に登場します。

富良野駅の発車時刻表

ドラマの中に登場するこの時刻表を見ると、五郎さんがつららちゃんを探す列車は、19時40分発の狩勝6号なのですが、列車が到着したホームの時計の針は、19時45分を指しています。ドラマの中では、まだ石勝線は開業していないのですが、放映された日(82年2月12日)は石勝線の開業後であり、もしかしてあの列車は本当は狩勝6号ではなく石勝線開業後の狩勝4号(19時45分発)なんじゃないか…なんてことを考えるのは、やっぱり、マニア気質なのかなあ(^^;)。

とはいえ、ちょっと考えれば、そんなことはないわけで、なぜならば、ドラマの中でホームにいる人々は夏の装いであり、石勝線の開業(81年10月)からドラマ放映までの間には夏はないのだから、石勝線開業以前に撮影されたものでないと辻褄が合わないわけで、単純に、列車が、少し、遅れていただけなのでしょうね。

富良野駅の場面で、やたら目を引くのは「わたしの旅スタンプ台」。

わたしの旅スタンプ台

ものすごく古い感じのする富良野駅や急行列車が登場する一連の場面の中で、自分の記憶的には比較的新しい存在である「わたしの旅スタンプ台」が登場するのが不思議なのですが、それは、富良野駅やキハ56の登場は自分の記憶が作られる前の出来事であるのに対し、「わたしの旅スタンプ台」が各地に新設されたときには、ぼくはもう鉄道愛好家だったからなのでしょう。

82年当時の"わたしの旅"スタンプ設置駅は、ちょっと、不思議なラインナップ。

1982年の時刻表に掲載されたスタンプ設置駅一覧

 

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島ノ下の狩勝4号

北の国からDVDマガジンは第9号が絶賛発売中。

北の国からDVDマガジン第9号

この間も書きましたけど、第5号ぐらいから発行部数をかなり減らしたようで、今回も、発売3日目には、いつものエリアでは、もう見かけなくなってました。第1号とか第2号は、いまだ、複数部数が並んでいるのですが。

第9号のDVDの前半は、連続ドラマの第17回。

富良野駅のホームと列車

すべてが懐かしいんだけど、思わず目が引き寄せられたのは「狩勝 指定席」のサボ。それと、隣の車両のグリーン車マーク。この二つが、ものすごいリアリティを出してます。リアリティも何も、これは、この時代の本物なんだけど、「狩勝」の文字の下の部分が黄緑色に塗られていることが、いま見ると、とても、新鮮に思えます。

この後、空知川の岸辺で蛍がこの列車を追いかけて走る場面は、いちいち説明しなくてもいいぐらいの有名な場面だと思いますけど、それがわかってても、涙が出てきてしまって、例によって、なんだこのおっさん(=自分のこと)泣いてるんじゃねえーよと(ひとりで突っ込みながら)笑うのは、もはや(自分的に)おなじみのパターンです(笑)。

いいんだ。

泣いたり笑ったりするのは、とても、よいことなのだ。

あの、蛍が走る場面は、このDVDマガジンの第1号が出たときに本屋さんで流れていたプロモーション映像にも入っていたし、多くの人が一度は目にしたことのあるシーンだと思うんですが(<いくらなんでもそれは言いすぎだろ(^^;)ということで知らない方はこちらでどうぞ)、あらためて見ると、その後の、急行狩勝4号の長編成に驚かされます。

たくさんの車両を連ねた列車

この少し前の場面、列車が富良野駅を発車した後、かあさんが車内を歩いてくる場面では、通路の両側のボックスシートが、ほぼ、埋まっています。思えばこれはまだ石勝線の開通前。富良野は、札幌と釧路とを結ぶ大動脈の途中の駅でした。

今となっては富良野駅にこんな列車が走っていたことすら想像しがたいのですが、ぼくが初めて北海道を訪れたときは、石勝線の開通後ではあったものの、まだ、富良野まわりの急行狩勝が走っていました。

その頃ぼくが乗った帯広17時40分発の札幌行き急行狩勝4号は、富良野からはたしか座れない人も出たほど、どどっと乗ってきて、若い女性の旅行者が(北の国からのこの回で蛍が枕元に置いていたような)ラベンダーの花束みたいなのを持っていたことが、とても印象に残っています。それが鮮明な記憶になっているのは、ラベンダーを持っていた女性が美しかったからではなく(どんな人だったかなんてまったく覚えていない)、♪渚のバルコニーで待ってて(ら〜べんだ〜の)が流行っていた頃だったからだと思います。

汽車が行ってしまった後、蛍に寄り添う草太兄ちゃんが、また、カッコイイんだ。
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晴耕雨読、夜視聴

また土日になると天気が悪くなるサイクルに戻ってしまったのか、昨日は曇り一時雨(室内にいて気づかなかったんだが路面に水たまりができていたから降った時間帯はかなり降ったんですね)、今日は朝からザーザー雨。

昨日の北海道新聞に、石破茂氏のインタビューが掲載されていました。

北海道新聞紙面、石破氏著書、鉄道ジャーナル最新号

北海道の鉄道を特集した鉄道ジャーナルは全国で読めるけれども、北海道新聞は北海道内でしか読めない。北海道というのは日本の中のガラパゴスみたいなところがあって、一定規模の人口があって、けっこうな面積のある島に一人の知事という単位になっているから、それだけでマスメディアが成立し得るわけで、それはかならずしも悪いことではないのだけれども、いずれにしても、北海道新聞は(北海道では多数の人に読まれているけれども)北海道外では読めない。

先日、NHKで放送された「北海道スペシャル」も北海道内でしか見ることができなかったのですが、BS1で、全国放送されることになったようです。

6月27日(火)24時50分〜「鉄路縮小の衝撃〜どう守る北海道の公共交通〜
6月29日(木)24時50分〜「鉄路縮小の衝撃〜私たちは何を選ぶのか〜

前者は昨年12月放送、後者は今年6月放送の番組です(ぼくがちらっと出てくるのは後者です)。いずれも、生放送でした。後者は、国、道、市町村、JRと、それぞれの立場を代表する4名が出演していたのですが、この意味が、また、道外の方からみると、わかりにくいかもしれませんが、北海道というのはなんだかんだいっても官の存在感が大きい、ということで、その中で、この4名の方々が顔を揃えたことは、とても大きな価値のあることです(より厳密にいえば、市町村の代表ということであれば、北海道市長会、あるいは北海道町村会の代表が適切なのでしょうが、番組の構成上、釧網本線を例として取り上げていたため、市町村の立場では網走市長が出演されていました)。

さすがに生で見る時間帯ではないでしょうが、見られる環境にある方は、ぜひ、録画して、ご覧ください(そういうぼくはBSが見られないので見ることができません<できなくても困らないんだけど、NHK地上波でBSの番組の宣伝をしょっちゅうやっているのを見るたび、いまどきNHKのBSすら見られない人って、少数派なのかしらん?と思ったりします)。

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人生を変えられた宿

前回、1989年の夏のユース・ホステルのスタンプの写真を載せたら、小清水ユースのキタキツネのスタンプは今なお現役であるとの情報をいただき、驚いているとともに、SNS時代の面白さを、あらためて感じているところです。

中山記念小清水YH(当時)のスタンプは、2種類あって、夏はキタキツネ、冬は白鳥でした。

ユース・ホステルのスタンプ

ぼくが初めて小清水に泊まったのは上の写真にもある1988年の2月、青函トンネルの開業直前、というよりは、青函連絡船の定期運航の終了直前で、青函連絡船は、さよならフィーバー(当時はまだ「フィーバー」は死語ではない)の真っ只中。ぼくの目的の一つも最後の青函連絡船ではありましたが、青森と函館の間を行ったり来たりするようなことはなく、ごく普通に、往路と復路の交通手段として、青函連絡船を使いました。

このとき、最初はどういう行程を予定していたのかがもはや思い出せないのですが、小清水YHは単なる中継点の一つで、チェックイン(とは当時は言わなかったと思うけど)のとき、ぼくは「明日の朝7時の汽車に乗りたいんですけど乗れますか」みたいなことを聞いているのです。それが、3連泊になってしまい、そんなのはまったくの予定外だったから、あとはもう帰るしかなくなって、網走から特急おおとり函館行きに乗り、一気に東室蘭へと移動したのでした。

どうしてそんなことになったのかというと、そのときの小清水YHのヘルパーさん(のちに長い付き合いとなるSさん)にそそのかされたからで、それまでにも北海道のユース・ホステルにはいくつも泊まっているのですが、宿の人に誘われて自分のスケジュールを壊したのは、これが初めてでした。3連泊して、ヘルパーさんに(ほかのホステラーさんと一緒に)越川温泉に連れて行ってもらったり、浜小清水駅で「汽車ポッポパフェ」を食べたり、小清水町の施設を使って農閑期でやることがない農家の方々にカーリングを教えてもらったりしながら、真っ白な雪原(本当は畑)の中を車で走るという「北の国から」的な動き方を初めて経験し、そうかこの辺の農家の人たちは冬は働かなくてもこんなに豊かな暮らしができるのかと(小中学校の社会科で習ったこととは違うぞと)知りました。

何よりこの小清水YHの3連泊が自分史上とても大きなターニングポイントとなったのは、これといった目的もないままユースに連泊するという旅を知った(知ってしまった)ことです。それまでも、ユースで一緒になった人と、翌日も行動を共にして一緒のユースに向かう(そのために次のユースを予約するのは前日の夜か当日の朝になる)、という経験はあったのですが、ヘルパーさんとなかよくなってユースに3連泊なんて世界があるのは、このとき初めて知ったのではないかと思います。

そして、その翌年の同じ時期には、小清水YHの玄関で「おかえりなさい!」「いってらっしゃーい!」をやり、夜になるとカウンターの奥でその日の宿泊者の会員証に白鳥のスタンプと日付を押していたのでした。そんな仕事はどこにも募集なんか出てないから、自分で手紙を書いて、働かせてくれと言ったのだから、あの(後世になってバブルと言われる時代に)ずいぶん妙なことをやっていたものだと思います。

ちなみに、上の写真の右側にある、高松と倉敷は、ちゃんと覚えてます。青函トンネルが開業した年、すなわち「一本列島」といって瀬戸大橋も開業した年で、ぼくは、下津井電鉄に出かけたのでした。下津井電鉄は、瀬戸大橋開業ブームに乗って観光客を呼び込もうと、メリーベル号を投入したり、駅をきれいにしたりしていた頃で、JRに児島駅ができたことでそれまでに比べると行きやすくなっていて、だから行ったんですけど、あれほどの投資をしてあんなにすぐに廃止になっちゃうとは、まさか、思ってもみませんでした。今だったら、どこかからスポンサー引っ張ってきて、もっと思いきった観光鉄道に特化しているんじゃないかと思うのですが、それが、バブルという時代だったのかもしれません。

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みなさんお元気ですか〜のころ

昨日のブログが好評だったので、続き的に。

ユースホステルのスタンプ

昨日のブログに載せたページの一つ前がこれです。1989年8月11日に羅臼YH、その3日後の8月14日と15日が中山記念小清水YH、14日の小清水のスタンプの下にある仙台道中庵YHは右のページ(昨日のブログに載せたページ)の木村屋や雫石につながる一連の東北の旅ではないかと思われます。

思われます、というのは、この東北の旅は断片的な記憶しかないから、なのですが、何かきっかけが出てくれば、一気に記憶が甦ってくるんじゃないかと思います。昨日、フェイスブックで根室標津の転車台復活のクラウドファンディングプロジェクトを紹介したら、コメント欄に、その転車台の上を歩く20代半ばの自分の写真が出てきて(当時一緒に旅していた方が投稿してくれました)、そしたらあのときああだったこうだったってのが、わーっと、まさに芋づる式に、出てきました。

1989年の夏にしても、ぼんやりとした記憶しか残っていなかったのに、このユース・ホステルのスタンプを見たら、だんだん、いろんなことが思い出されてきました。8月11日の羅臼の次が14日の小清水になっていて、じゃあ12日と13日はどうしたのかというと、きりたっぷ里(という名前の民宿)に泊まったのでした。羅臼とか、きりたっぷ里とか、当時の自分の行動的には珍しい宿に泊まっているのは、レンタカー代をシェアするために友人と一緒の行動をとっていたからで、それらの行程も、友人が作ったものでした。

もうみんな忘れてるだろうけれど、あの頃、北海道内のレンタカーには距離制限があって、2日目以降だったかは1日あたりの上限キロ数があって、それを超えると1キロあたりいくらだか取られて、この上限キロ数というのが北海道を旅行するには非現実的なほど短くて、さらにそれを超えたときのキロあたり単価がまたえらく高かった。

現在は、北海道内で安いクラスのレンタカーを借りると、かなりの確率でヴィッツが出てきますが、この当時、いちばん安いのを頼むと、スターレットの1300とかが出てきて、これに大人が3人乗ると、上り坂はぜんぜん走らなくて、ユースで泊まり合わせた人たちと早朝に何かを見に行ったとき、後ろから来た車にあっさりと追い越されたことを思い出します。そして、追い越されるとき、追い越す側は窓を開けながら「みなさんお元気ですか」と言ってくる…平成元年だから「みなさんお元気ですか」の音声なしバージョンからでもしばらく経っていたはずなのですが、まだまだ、そんなのがウケてた頃でした。

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春採湖のユースホステル

一昨日のブログを書いていて、思い出しました。

ユースホステルのスタンプ

釧路市立博物館がある春採湖の近くに、かつて、釧路ユース・ホステルというのがありまして(現在はもう営業していないことはさっきググって初めて知りました)、一度だけ、泊まったことがあります。上のユース・ホステルのスタンプにあるように、宿泊したのは、1989年の11月24日。およそ北海道観光には向かない時期で、北海道ワイド周遊券を手にして旅行していたぼくは、いろんなユース・ホステルに電話してみるも(断られる以前に)電話に出てもらえず(公式には休業期間ではなくても休んでいたのだと思います<お客なんか来るわけないもんね)、ようやく泊まれたのが、釧路ユース・ホステルでした。

釧路には、釧路まきばユース・ホステルという人気のユースもありまして、ぼくは、その時点で、「まきば」には何度か泊まってました。まきばは小じんまりとしていて雰囲気のいいユースだったことに加え、釧路駅から歩いていけたのも利用しやすくて(しかし今だったらあんな距離は歩かないだろうな)、それに比べると、釧路ユースは、これといった特徴がない(よくも悪くもホステラー=旅行者=間の口コミ情報がない)うえに、釧路駅からバスに乗らねばならないのがネックでした。バスに乗らねばならない、というのは、時間の問題というよりも、バス代を払わねばならない(=北海道ワイド周遊券では乗れない)、という点で、選択肢から外れてしまっていたのでした。

文字が滲んでますが、下から二つ目が、MAKIBA YH=まきばYHです。

ユースホステルのスタンプ

ついでにいうと、原生花園YHに泊まったのは、湧網線のさよなら列車の日です。この頃は、まだ、同じ宿に連泊するんじゃなくて、毎日、違うところに泊まってたんだな。

1989年11月24日に話を戻すと(それにしてもぼくはどうしてこんな時期に北海道旅行なんかしてたんでしょうね?)、いくつかのユースが泊まれなくてようやく探し当てた釧路ユースの宿泊客は3名で、うち1名は、なんと、同じようにオフシーズンの北海道をほっつき歩いていた、中学高校時代の先輩でした。もう一人が(たしか英国からの)留学生の女子大生で、翌日、3人で、釧路市立博物館を見学してから、細岡大観望(と当時はまだ呼ばれていたような気がする)じゃないほうの釧路市湿原展望台に行ったりして、要はこの頃は普通に旅行しちゃってたもんで、いま思い返せばせっかく春採湖の近くに行ったのだから釧路の石炭列車群を見に行けばよかったのに…と、この点は、それよりも7年前に初めて北海道を訪れたときに白糠線に乗らなかったのと同じぐらいの、ちょっとした後悔です。

あれから28年。

線路と貨車

ここに、背の高い(レールの幅が狭いからそう見えるだけでじつは小さな)機関車がたくさん走っている写真や、下のほうを走っている釧路臨港鉄道の日本の鉄道っぽくない写真は、憧れを抱いて見ていたのに、その頃は、そんなことよりも、ユースに泊まったり、植物や動物を愛でたりするほうが楽しくなっちゃってたんだなあ。初めて北海道を訪れたときには、ものすごく気になってても、そこまでの余裕もなかったし、今と違って情報を集めるのも大変だったから、釧路の、駅からかなり離れたところにおもしろいものがたくさんあるらしい、ぐらいしか、わかんなかったんですね。

※釧根地域の簡易軌道に関するNHKニュースの特集は、いよいよ、明日(23日(金))午前5時台のNHK「おはよう日本」での放送です(午前5時半ごろとのこと)。
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祝上場

大通駅の南北線と東西線の交点にあるセブンイレブンと、みずほ銀行のATMコーナーの間を歩いていたら、目の前に広告が出てきてびっくりして、写真を撮ろうと思ったものの人通りの多い場所ゆえ知らない人の顔が写るのは(というよりも知らない人が視野に入ってくる角度でカメラを向けるのは)嫌だなと躊躇しているうちに広告表示が別のものに変わってしまい、次の表示までしばらく待とうとみずほ銀行のATMコーナーの前で立っている間に、そうか反対側にまわれば多少は人通りが少ないはずだと気づき、反対側(西側)にまわって、こちらに向かってくる人が途切れた(わずかな)タイミングで、2パターン、撮らせていただきました。

祝上場 エコモット の広告看板祝上場 エコモット の広告看板

よく見ればいちばん下に札幌証券取引所とアンビシャスの文字があり、そうか自社出稿ではなく札証のご祝儀なのかと気づいて、ちょっと、ひと安心。いや、別に、何をやってもいいんだけど(一度しかない晴れ舞台なのだから)、やりすぎじゃね?とも、一瞬、思ったものですから。

もう、あれから、10年なんだなあ。
そんなに経った気がしないのは、こっちが進歩してないからなんだろうな。

おめでとうございます。

ぼくも、もっともっと、まだまだ、これから、頑張ります。
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簡易軌道特集が全国放送されます

先週、NHK総合テレビの「おはよう北海道」で放送された「”簡易軌道”に光をあてたい」が、こんどの金曜日(23日)の早朝5時台に、全国放送されるそうです

NHKニュース画面

簡易軌道とは何か?は、釧路市立博物館発行『釧路・根室の簡易軌道』の「はじめに」に、とてもわかりやすい説明があります。その一部を紹介しましょう。

《北海道の開拓地は泥炭地や火山灰地も多く、春の融雪期には道路は「ドロドロ」状態、交通が極めて困難となり、それが開拓の障害ともなっていました。そこで内務省北海道庁(国)は道東・道北を中心に、レールでの輸送機関「殖民軌道」を計画します。まず1924(大正13)年に厚床〜中標津が開通、その後次々と敷設されました。(中略)戦後の内務省解体により農林省所管となり、「簡易軌道」と呼ばれるようになります(一部で戦中から)。(中略)簡易軌道は、地方鉄道法(現 鉄道事業法)や軌道法による「鉄道・軌道」ではありません。レールと車輪による交通機関という面では確かに鉄道・軌道ですが、運輸省ではなく農林省、北海道開発局が所管していたことからもわかるように、法令的には「似て非なるもの」、土地改良法に準じて管理された「土地改良」のための施設です。》

本の表紙 釧路・根室の簡易軌道

この冊子(『釧路・根室の簡易軌道』)は、釧路市立博物館創立80周年記念企画展「釧路・根室の簡易軌道」の展示内容を元にして作られたものだそうですが、136ページの中に、写真や図表や文章がこれでもかというぐらいに詰め込まれた、ものすごく貴重な資料集です。実際に簡易軌道に関わった方々(多くは戦前生まれの方々)から聞き取ったお話がたくさん載っているなど、非常に史料的な価値の高い冊子です(博物館の通販でも買えますし、東京都内なら書泉でも買えるようです)。

簡易軌道というのは個人的にもともと非常に関心の高い分野でありまして(前にも書いたかもしれませんがブルートレインよりもナローゲージを好む少年でした)、我が家の本棚には、こんなのも並んでます。

本の表紙 簡易軌道を特集した鉄道雑誌

これらも貴重な写真やデータがたくさん載っているのですが、発行部数が少ないからなのでしょう、いずれも、お値段は、それなりにしました。そんな中で、今回は、釧路市立博物館をはじめとする関係者のみなさんのご尽力により、これほどの資料を集めた冊子が手軽に入手できるのだから、本当にありがたいことです。
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